まあ大変だよな。
唐組の岡山公演が中止になったようだ。
もう観ることもないだろうと思っていたが、岡山にやって来るというので観に行こうかと思っていたんだが、中止だそうだ。
劇団員にコロナウイルスの陽性者が出たということで中止にせざるえなかったようだ。
大変だよな。
唐組の岡山公演が中止になったようだ。
もう観ることもないだろうと思っていたが、岡山にやって来るというので観に行こうかと思っていたんだが、中止だそうだ。
劇団員にコロナウイルスの陽性者が出たということで中止にせざるえなかったようだ。
大変だよな。
4月26日、大阪の南天満公園でやった唐組の公演『ジャガーの眼』を観に行った。
『ジャガーの眼』は今までで1回か2回くらい観ているとおもう。何年ぶりだろう。
去年も南天満公園に唐組の芝居を観に行ったが、大阪という都市の交通のことはよく分からなくて、JRの大阪駅を出た後、地下鉄の東梅田駅に行こうとして、そこに行くまでの道がややこしくて迷ってしまい、冷や汗をかいた。
今年はさすがに行き先を案内する矢印を目当てにしながら、東梅田駅の入り口の分かりにくさにはまいりつつも、一度案内所で聞いただけで、見つけることができた。
大阪は都会だ。乾いたコンクリートの巨大な匂いがする。東京と同じだ。
天満橋駅で下りる。
南天満公園の西の端の方にある紅テントまで歩く。この公園はわるくない。大きな河のそばを歩く。
唐組の受け付けで公演のチケットを買う。2時に行ったときにはもう受け付けまでの列ができていた。
それから天満橋の一駅先になる予約していたホテルに向かい、チェックインする。
これでひと安心だ。寝る場所は確保したわけだ。午後3時。
夕食は予定通りマクドナルドのビッグマックのセットにした。ずっと食べていなかったので、食べたかった。
唐組・第63回公演 『ジャガーの眼』
作・唐十郎 演出・久保井研+唐十郎
大阪公演に来る客は東京の客よりも熱心だとおもう。かなり集まった人たちをみていて、そうおもう。
先生に引率された女子生徒たちがたくさんやって来たのでびっくりする。高校生か大学生か。高校生だな。女子生徒ばっかりだから女子校か。宝塚にはみえない。高校の演劇部だろうか。20人か30人はいる。だいたい30人だ。30人もいる演劇部なんてあるんだろか。
こんなことは初めてだ。
東京の新宿花園神社で長く唐組の芝居を観ていたが、唐十郎が舞台に出なくなってからは段々と客が少なくなっていって、唐組は興行を続けられるんだろうかと心配してしまったが、今日は盛況だ。
物語は、ストーリーは例によってよく分からない。分かっているのは唐十郎だけじゃないか。
辻孝彦も稲荷卓央も赤松由美も気田睦も出てこない。辻孝彦が出てこないのは当然だが・・・。
役者がだいぶ代わっている。初めて観るような役者たちがたくさんでてくる。
「少年ヤスヒロ」を演じる大鶴美仁音がいい。
中心にある久保井研の座りがよくなり、久保井研の劇団になりつつあるという印象だ。
芝居の途中から雨が強く降ってきて、テントをたたく。芝居と現実との通路を開くラストが印象的になった。
ホテルの朝食はとらずに、ホテルのすぐ横にあるコンビニで朝メシを買った。
ホテルの朝食はおいしくないだろうということと、普段は食べないパンを、自ら禁じているパンを食べたかった。
9時半頃チェックアウトする。
唐組の芝居を観に来るのに全部で3万くらいかかっている。交通費、チケット代、ホテル代、食費など。
ホテルのベッドは身体が沈み込むベットで寝つきはよかったんだが、途中で目が覚めてしまい充分に眠れたとはいえない。
こうまでして観に来ることはないんじゃないかと思ったりするが、唐組を観なくなると、もう演劇とは縁が切れることになるだろう。どうしたもんだろう・・・。
流れだな。流れできまるだろう。明日は明日の風が吹く。
新宿花園神社で行われた唐組の第59回公演『ビンローの封印』。
再演ということだったと思うけれど、観たことあるんだろうか。唐組の芝居は1989年からずっと観ているけれども、観ているという記憶がはっきりとはない。
途中、1年か1年半くらい観なかった期間があるかもしれないので、そのときにやった芝居なのか。
観たという記憶がどうもなさそうだ。
観たというのはNHKだったと思うが、ドキュメンタリーのようなドラマのような番組で唐十郎が、台湾だったとおもうが、ビンローを、種のようなものを口の中に入れて噛むと赤い液体、粘液のようなものになってそれを口から吐き出すという場面を、映像を観たような記憶がある。
その日の新宿花園神社の境内では骨董品の市がひらかれていて、気はそそられるが買う気にはならないという微妙な品々がひろげられていた。人は多い。新宿花園神社というのは新宿という街の真ん中に空いている逃げ場なのだ。「空いている場」なのだ。ぼくはここに来るとホッとする。
唐組第59回公演『ビンローの封印』。
作=唐十郎
演出=久保井研+唐十郎
花園神社にある掘っ立て小屋のような受付で前売り券を整理券に替えてもらって、靖国通り沿いにある歩いて10分くらいのところのミスタードーナツまで真っ直ぐに行った。ぶらぶらとしなかった。唐組の芝居を観に来たときよく行っていた紀伊國屋書店へも寄らなかった。
そこで持っていっていたおにぎりを一つ食べ、ホットコーヒーを飲みながらオールドファッションドーナッツとエンゼルクリームとハニーディップを食べ時間をつぶした。
コーヒーのおかわりを頼んだが、4分の1くらい残した。
観たことのないような、初めて観るような役者が次々に出てくる。
うす暗い舞台の中央奥に赤い鳥居。
その向こうに「公衆便所」の文字。
地下に迷い込んだような舞台の雰囲気。
暗く、湿気に満ちて、影が多く、猥雑で雑多。どこか寂しい。
記憶のどこかにこの光景、風景があるけれどもそこの記憶の扉を開けてしまうのがちょっと怖い。そんな感じだ。
前半は硬質だなという印象。それ以上はつかめない。
岡田悟一、赤松由美、藤井由紀、辻孝彦、久保井研、福本雄樹という役者はよく知っているし、清水航平という役者もおぼえたけれど、あとはよく知らない役者たちだ。
前半が終わって休憩時間が10分ほどあるので、花園神社内のトイレに行って、出して、戻ってみたら自分の座っていた場所がどうも前と違っている。
変だなと思ったまま後半の芝居がはじまって分かったけれど、斜め後ろに座っていた女の客がぼくの座っていた所に移って割りこんでしまっていた。その客は芝居にどうしても集中できないようで、いろいろと動く。足にかけている何かの衣類のジッパーの開け締めをずっとやっている。
芝居に集中している人の振る舞いは気にならないが、集中できない人の振る舞いは気になってしまう。
ということで、後半の舞台はどうも集中できなかった。残念だ。少し運の悪い日になってしまった。
仕方ない。
ちゃんと観たという感じがないので、芝居についてはこれ以上のことは書けない。
よかったことは唐十郎が芝居が終わってからのあいさつに舞台に出てきたことだ。ひさしぶりに見た。花道をヨタヨタとゆっくり歩いて舞台に上がった。
思っていたよりも元気そうだ。帽子をとって頭を下げたら頭が見事に禿げ上がっていた。
いつかまた唐十郎が役者として舞台で動きまわる日がくるんだろうか。芝居のあと、舞台の中央に立って出演した役者たちをつぎつぎに客に紹介していくあの声がまた響くことがあるんだろうか。
舞台と現実の通路が開け放たれ、闇のなかに唐十郎たちが溶けていく。
五月。
こんなふうにしてぼくの『ビンローの封印』の夜は終わった。
唐十郎の描いてきた世界というのは、世の中の最底辺のくら闇の世界で這いずりまわり、転げまわる男たち女たちの世界といえる。
男たちや女たちは泥に足をとられながらもそんな世界からの脱出や飛躍をこころみる。なかには最底辺の世界を、地底のような世界を、希望の死んだ世界を、一瞬のうちに妄想や夢の王国に変えようとたくらむ者たちもでてくる。
<眼をとじて開ければすべてが変わっている。そんなふうにならないものか>
しかしかれらは本当にこの泥の世界から逃げ出そうとしているのか、逃げ出したいのか。じつは逃げ出そうとしていないのではないか。
唐組・第56回公演『鯨(げい)リチャード』
作・唐十郎。演出・久保井研+唐十郎。
最初にぬーっと突き出される気田睦の腕のひじから先が見事にきたえられていて、なんの仕事をしてるんだろう、肉体労働者なのか、ジムに通っているんだろうかと想像させる。
その気田睦が演じるのはせむしのイングランド王リチャード三世の名をもつ新宿の鯨カツ定食屋の女将なのだ。この女将は鯨カツ屋だけでは食べていけず、なにやらほかの仕事もやっていそうなのだ。
気田睦の女将のいつもはいているよれよれの白いステテコがなんかとてもおかしいのだ。
唐組の舞台で常に中央に立っていた稲荷卓央がこの舞台には出ていない。代わって中央に立つのは唐組の若手俳優福本雄樹だ。
福本雄樹は熱演だが前半の舞台では気田睦の細部までのうまさと安定感が際立っている。
クジラの油がこびりついている汚れた鯨カツ屋を中心に動きまわる、新宿の地底に住むような登場人物たちはそれぞれの立場の言葉を所有している。もっている。しかしかれらは言葉の意味を投げ合っているわけではない。
声の調子と響きといきおいを投げ合っている。
意味ではなく声の共鳴と統一と交差が新宿の地下の世界の天井と道路と泥に響きわたる。そのこだまが飛び交う。
この下水道のようなひかりの差さない世界からかれらは走り去りたいのか、とどまりたいのか、脱出口をみつけたいのか、みつけたくないのか。
この地下通路の世界を破壊したいのか、ひっくりかえしたいのか、うつくしく飾りつけたいのか。
唐十郎の影しかみえない劇団のその跡に久保井研がしっかりと立っていて、唐組としてのおさまりがよくなっている。けっこう長く観てきたものとしてはこれでいいんじゃないかと思う。劇団としての落ち着きが出てきている。
テンポをはずしながら出てきて、あっというまに自分の間合いの舞台にする辻孝彦はやっぱりおもしろくて味のある役者だと思ったし、岩戸秀年はつかみどころのない不気味さと気味悪さが同居する。
次の舞台もやっぱり観に来たいと思ったのだ。
2012年いらいの公演。2階席ではじめて観た。
最初観たのが青山劇場のはずで、それ以来よく観るようになって、ぼくには親しんだ芝居というか演劇というか、舞台となった。
ほかに決まって観る芝居というのが唐十郎の唐組の芝居だけなので、都心の大きな劇場に行くのは、行く機会があるのはこの『ラ・マンチャの男』をやる帝国劇場だけになってしまった。
最初観たときは三重の塔のような重構造の演劇に魅力と衝撃を受けたと思う。全体像が一挙にはつかめず、けわしくも難しくもあった舞台だったと思う。
そのときに比べるとエンターテイメント性はぐっと前面に出てきている。
松本幸四郎の歌がよかった。よく聴こえた。アルドンサが歌う<あの人はどうして~♪>とうたう歌はやはりみずみずしい。
『ラ・マンチャの男』というのは音楽がいい舞台なんだなとあらためて思った。クライマックスの飛翔感は抑えているという印象だ。
相手役のアルドンサなどかなり役者が新しくなっている。
ここしばらくの唐組の舞台のなかでは強いアクセントというか強い線、強い段落を感じた。これは唐十郎とともに演出を担当している久保井研の新聞でのインタビュー記事のなかで、初演のかたちに戻したのだみたいなことをしゃべっていたので、その印象もあったのかもしれない。
『透明人間』という舞台は何回か観ているように思う。何回か観ているはずだ。
唐組・第55回公演『透明人間』。
作=唐十郎。演出=久保井研+唐十郎。
ところは新宿花園神社。
パンフレットをみていると、演出では唐十郎のまえに久保井研の名前がついている。これは初めて見るような気がする。
前回の公演『紙芝居の絵の町で』のときはいろいろあって自分の集中力が途中で切れてしまい、妙な気持ちで芝居の終わったあとの道を歩いたけれども、今回はそんなことはなくて、いわば身体を楽にして観ることができた。神社と相性がよかったりもするんだろうか。
4時すぎくらいか、受付で前売り券を入場番号の書いてあるちいさな四角い硬紙に替え、神社をでて近くの喫茶店ルノワールに行く。
いつもなら喫茶店にしばらくいたあと、紀伊国屋に行って本をながめたりするんだが、今回はうごく気にならず、ルノワールに一時間以上いた。
受付でもらった『透明人間』のパンフレットのあいだにはさんであったほかの劇団のチラシなどをみて時間をつぶす。それと喫茶店にはいったときだけ読むことに決めてある文庫本をよむ。
麿赤兒の大駱駝艦の舞踏のチラシ、唐組の怪優辻孝彦のほかの劇団への出演のチラシ、天井桟敷系の劇団のチラシなどがある。むかし、あたまをつるつるに剃っている人がいて、インパクトあった。あれは舞踏をやっている人たちだったんだなとおもう。インパクトあったけれど、いまは当たり前になってしまった。しかしあたまを剃る以上にインパクトのあるあたまってあるだろうかと考えたりする。
5時半にルノワールをでて、コンビニでおにぎりとパンを買う。神社で空を見ながら立ち食いをする。
すこし暗くなったころ開場の呼び声がかかる。神社という空間は落ち着く。おれの田舎は寺と神社だらけだった。そのせいもあるのかなあ。
考えてみると唐組の芝居というのはにぎやかな舞台なんだなとおもったりする。つねに人が動き、つねに人がしゃべる。なぜ「透明人間」というタイトルなんだろうということも考えた。
自在なかんじがしてきた役者久保井研がしゃべっている。そして辻孝彦、稲荷卓央、赤松由美、土屋真衣、気田睦、福本雄樹といったいつもの役者陣が立ち動く。職場にこういう人がいたらいじめられそうだなという藤井由紀の最後の水からあがってくるところのまなざしがとても美しく、小さくそそりたっていた。あれはリアリティがでる。
芝居が終わったあと、神社にしばらくいた。そして夜の新宿を帰る。
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