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ヘーゲルの「哲学史講義」を読んできて、その「Ⅱ」が終わった。
「哲学史講義」を読むのは二度目で、一度目を読み終わってからすぐ二度目を読み出した。
精神というものの基本的な働きの仕組みを確認したかったし、学びたかった。
必要だったし、得ることが多く、力づけられたが、読んでいて「これはヨーロッパのものだな」と時々思うようにもなった。
日本人・アジア人の思考は<あいだ>に感覚的なものをはさまなければ展開しない。ヨーロッパ人の思考の展開とはちがうのだ。
そのことを思った。
それとソクラテスを読んでいるときにも感じたが、ソクラテスは心を、精神を「身体」というものから離れさせたがっていた。ヘーゲルにもそれはあって、もっと強いものになり、「身体」への軽視と嫌悪が強くある。
たぶんソクラテスから、ヨーロッパ哲学の頂点にあるヘーゲルまでそれは貫かれ、引き継がれ、強まってきたものなのだ。
日本人・アジア人にとっては「身体的感覚」というものは親しいものであって、ヘーゲルのいうヨーロッパ人あるいはキリスト教文明のもとにある者たちとはちがうのだ。
ちがってしまっているのだ。
この違いは受けいれられていいものであり、肯定されていいものだ。仕様のないものでもある。
詩人で評論家の愛敬浩一さんが去年の5月11日に亡くなっていたことを知って驚いた。
ショックを受けた。
よく書く人で、実にたくさんの詩集や評論集を贈ってくれて、「よくこれだけ書けるものだな」と驚かされ続けた。
去年、机の上の本の中に愛敬さんの本がないことに気づいて、「そういえば愛敬さん、この頃、本を送ってこないな」と思ったことがあったが、まさか死んだのだとは思わなかった。
残念だ。
愛敬さんが批評でぼくの詩を取り上げ、評価してくれたときはうれしかったな。
合掌。
けっこう強い地震があったな。
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