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ウクライナ危うしだな。
このことがいちばん気になる。
読むのは二度目だ。
前回同様読み出してすぐ思ったのは「はっきり言うなあ」ということだ。相手(この場合、吉永小百合)への遠慮も忖度もない。
それは対象への上から目線というものからくるのか、関川夏央が相当きつい性格ということからくるのか、どうなんだろうと思ったが、読み進めていくうちに、「昭和」という時代をつかもうとするとこういう目線になるのだろう、こういう目線がやりやすいのだろうと思った。それと関川夏央がはっきりものをいう性格というところからくるのだろう。
この長い評論に引用してくるのは、いわゆる本からだけではなく、月刊誌、週刊誌、芸能週刊誌、映画雑誌、吉永小百合のファンクラブの会報誌だったりする。こういったからのものの引用で、戦後の昭和という時代を象徴した思想や社会の動きを語ろうとする。
新鮮だった。
関川夏央は戦後の社会の動きをつかむ手段として「日活映画」を使っている。「日活映画の思想」というものがあるというのだ。
小説を読むように面白い。
「豊饒の海」の最終巻。
「天人五衰」は海の描写から始まる。
松枝清顕から始まった輪廻転生の流れは飯沼勲、ジン・ジャン姫そして海の仕事をしている16歳の少年安永透へと引き継がれるからだ。
時は昭和45年。ここの文章は装飾的な文章ではない。
輪廻転生の生き証人本多繁邦は76歳になっている。
「豊饒の海」の最終巻「天人五衰」を書き上げた後、三島由紀夫は自衛隊にクーデター決起を呼びかけ、かなわないとみて(当然それは予期していただろう)自決に至るわけだから、この「天人五衰」を読みながら、そこに至るまでの道筋を読もうとするのが自然だが、書かれていないのだ。
少年時代を過ぎた頃の主人公安永透のアルチュール・ランボーばりの日記が出てくるが、これはこれだけのことで、この「天人五衰」には三島由紀夫のクーデターを計ろうとする心の動きは出てこないのだ。
三島由紀夫においては<文学>と<政治>が統一されておらず、別々になっている。<文学>と<政治>を合わせたものが三島由紀夫という人間なのだろうと思ったが、
最後に出てきた。最後には政治と文学がつながるような文章が出てくる。その方向に文章は飛ぼうとしているのだ。政治と文学は目に見えるようには統一されなかったが、この「天人五衰」の最後の方の文章においては三島由紀夫の文章は繋がろうとしている。飛ぼうとしているのだ。
三島由紀夫という文学者が何故クーデターを起こそうとしたのか、実際に行動してしまったのか。三島由紀夫の「政治」は分からないのだが、最後文章においてはつながる方向に飛ぶのだ。
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