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小林秀雄の28歳ごろの批評を集めた「批評家失格」を読んでいたけれど、期待していたほどのことはなくて(28歳ごろの批評だから仕方ないのだが)、このまま読んでいても、大したものは出てこないだろうと思い、他の本を読んでみることにした。
小林秀雄の「批評家失格」も手元に置いたまま読まずにいたので、読んでみようと思い読み出した本なのだ。
他に手元に置いたままになっている本は、身体関係の本一冊とダーウィンの「種の起原」だ。
「種の起原」は相当前に買ったもので、読み出してすぐやめてしまったのだ。しかし気になっている本ではあって、ずっと手元に置いていた。
今、どう読めるだろう。
古典的な本だ。
1859年の本だ。
寒くなってきた。あんなに暑かったのに。
その暑さが長く続いたのに。
第三巻「暁の寺」はタイ・バンコックの情景からはじまる。四十七歳になった本多繁邦がバンコックにいるのだ。
「暁の寺」には松枝清顕の生まれ変わりである飯沼勲の、その生まれ変わりのタイ国の王室の人間であるジン・ジャン姫がでてくるが、この第三巻の軸は裁判官から弁護士となった本多繁邦だ。
しかし輪廻転生の証人という劇的な立場にある本多繁邦はなんともみじめな情けないことになってしまっているのだ。
本多繁邦は痴漢になっていた。
「触る痴漢」ではなく、「見る痴漢」というものになっていた。
夜の公園でカップルがナニしている時にのぞいている痴漢だ。本多繁邦は「見る痴漢」であることにこの上ない喜びを感じる男になっていた。
三島由紀夫はどういうつもりでこういう展開にしたのだろう。
装飾的な文章もいっぱいあり、のちに若者を引き連れてクーデターを計り、自死することを考えれば、その<硬さ>を考えればそぐわない気がするが、三島由紀夫自身には矛盾といったものはなかったのだろう。三島由紀夫とはそういった人だったのだろう。
三島由紀夫というと純文学のというイメージが強いが、「暁の寺」を読んでいて、<読者への目>を感じたし、<読ませよう>という意識を感じた。ぼくにとって意外な発見だった。
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