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名前は昔からよく知っていて、本屋でみつけたとき、読んでみようと思った。
読んでいて、こういう見方というものがあるんだなあというのが第一の印象だ。
唐十郎を思い出した。福田恆存も唐十郎も演劇をやっているからか。演劇をやっている者たちがよく持つ「見方」なのか。
福田恆存はみずからの「見方」でためらうことなく考えを組み立ててしまうんだなあ。
福田恆存は開かない。
何かを解決しようというのじゃないな。
ある視点に立った見方ですべてをとらえる。断定する。
保守的ということを何をいっても、何をやっても自分自身は変わらないということだとすると、福田恆存は保守的だ。小林秀雄も保守的というイメージがあるが、小林秀雄は開いている。変わっていける人だ。
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「四」のマクベスを語るところで福田恆存は変わってくる。ここで福田恆存は開いてくる。福田恆存の自身の知というものを感じる。
「シェイクスピアは生きた人間が動きまわる姿を愛し、それを作品に写しとったのである。劇詩人としての才能を除いては、かれは一個の凡庸人だったに相違ない。」
「私たちに堪えられないのは受苦そのものではなく、無意味な受苦なのである。偶然の受苦、とばっちりの受苦、自分の本質にとって必然でない受苦、それが堪えられないのだ。」
ここでは福田恆存は自分というものを出している。
「五」を読んで福田恆存の保守ぶりに興味を持った。この視線はどこから生まれてくるのだろうと思った。この立場はどこから。福田恆存だけが持つ知の鋭さがある。
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