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2019年4月12日 (金)

堤 美代「草の耳」

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 てっきり歌集だと思って、開かないままにしていたが、ある詩誌の詩集評のページを読んでいたら、この堤美代さんの『草の耳』が取り上げられていて、歌集だとおもって読んでいたら、「あとがき」に詩集とあったので、これは著者は詩のつもりで書いていたのだろうというようなことが書かれてあったので、あわてて読んでみた次第だ。

 読み出すと速い。速く読める。1ページ1行だ。

 これはやはり「歌」だな。歌として読める。

 堤美代は詩として書いているのか。「あとがき」にはたしかに「詩集」とあった。一行詩か。

 かなり実験的な試みだな。

 しかし「歌」として読める。一行歌か。

 五-七-五-七-七の歌や五-七-五にちかい歌もあるが、ほとんどの<短歌>や<俳句>がオーバーランしている。自由歌あるいは一行詩と取るべきか。

 

 気に入った「歌」を、ルビが付いているものと同じ漢字が見つけられなかったものを除いてならべてみる。

 籾蒔かぬ百姓の庭の蟻地獄

 風草はかりそめの柩黒揚羽

 風草よ野苺のなかの祖母よ縄文よ

 雁渡る。馬の首あり。回転木馬

 佐渡の舟橋。芒渡して自転車渡す

 断罪の何ぞ蜥蜴の尾っぽ半分

 風草から風がこぼれる両手で掬う

 籾播かぬ六月の三十日の長きこと

 麦は青。かなしみうたがいひもなく伸びて

 君亡くて花の世しゃぼん玉売りばかりなり

 風の盆笠目深かにして巫女となる

 銀座三丁目墨染めの僧に礼拝する

 過去生も現世も白し喉仏

 

 「あとがき」からも印象にのこったところを書いておこう。

 「言葉で詩を書くということは、じぶんの内奥に潜む、まだ、見知らぬじぶんとの闘いの姿とこころの記憶を認識することでありました。これらの詩行と対面することは、私の内なる暗黒と光とに向き合うことでもありました。」

 

 

 

 

 

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