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ちょっと驚いたのは、ヘーゲルのアラビア世界についての記述で、ローマの支配が終わったあと、ゲルマン民族の時代になったわけだけれど、
「野蛮なゲルマン民族の支配によって沈黙させられた哲学や学問や芸術は、アラビア人のもとにのがれ、そこで美しい花を咲かせる。そしてそれがこんどは、西洋に文化が流れこんでくる源泉となります。」
これは知らなかったな。そうなのかと思った。
ぼくがヘーゲルを熱心に読むようになったのは、『哲学史講義』に書かれている内容そのものにたいしてだったけれど、はじめはそうだったけれど、ぼくはある事件を、ぼくの体験したある事件を見返そうとしていて、その行為のなかで、じぶんの混乱をさけるための、道に迷わないための、リトマス試験紙というか、足もとを照らす光というか、そういうものとしてもヘーゲルを読んでいた。
「プラトンは国家の理想形態として、人間が理性的に生きる状態を構想しました。人間が国家のうちに生き、法や道徳や慣習が人間によって受けいれられる状態が、理性が現実に存在する証(あかし)の一つです。そして、世界がそのような理性状態にあることによって、はじめて、外部世界と内部世界が具体的に照応し、具体的な調和が存在します。」
ほそい道がみえる。
幸福ということをよく考えるようになった。幸福をもとめて生きてもいいのか、それが目的でもいいのか、社会とはべつに、社会状況とはべつに幸福であるということはできるのか。幸福とはまったく個人的なものとしてあるのか。
ヘーゲルは真っ直ぐに歩く。
ヘーゲルがローマ世界について語っている。
「明朗なギリシャ世界では、主観は国家や世界と強くつながり、国家や世界のうちに生きていたのですが、不幸な現実のなかにあっては、人間は自分のうちに引きこもり、世界のうちにはもはや見出しえない統一を、自分のうちにさがし求めねばなりません。ローマ世界は抽象的な世界であり、教養世界の上部に唯一の支配、唯一の支配者が君臨します。国民の個性は抑圧され、外的な権力が抽象的な共同性として個々人にのしかかってきます。そうした分裂状態のもとでは、どこかに満足を求め見出す必要が生じる。」
『マッケンナの黄金』を観たが掘り出し物だった。ハズレることもあるが、これは当たり。快作だ。
グレゴリー・ペック主演、J・リー・トンプソン監督。1969年のアメリカ映画。
テンポがよく、間がいい。J・リー・トンプソンの代表作は『ナバロンの要塞』ではなく、こっちだとおもう。
主演のグレゴリー・ペックはイメージとちがって、運動能力の高い人で、身体がよく動いている。この映画でもスタントを使っているところもあるが、自分で動いているところもあって、当時もうそれなりの年齢だったろうが、このことを考えると大したもんだと思う。
グレゴリー・ペックの身体能力に気がついたのは、この前に観たやはり西部劇の映画で、へぇーと思った。もう一つグレゴリー・ペックで面白いと思うのは出演する映画の選び方だ。
グレゴリー・ペックといえば弁護士を演じた『アラバマ物語』を思い出すけれど、この『マッケンナの黄金』はアクション西部劇って感じだし、この前観た西部劇も娯楽ものであると同時に、「インディアン」の見方がそれまでの西部劇からすると外に出ているというか、異色で、この人、あんまり表にはでてこないが、相当リベラルな人じゃないか、相当考え深く映画を選んでいるんじゃないかと思ったりした。
黄金にとりつかれた悪党としてオマー・シャリフ、テリー・サバラスとか出てくるが、悪党ひとり一人の輪郭もちゃんと彫っている。
すっきり楽しめた2時間ちょっとだった。
プラトンの「エウテュプロン」、「ソクラテスの弁明」、「クリトン」、「パイドン」を読み終わった。
「ソクラテスの弁明」、「クリトン」、「パイドン」は得るところはあった。「パイドン」には大きな影響を受けそうなところもあった。
読み終わってしばらく窓の外をみていた。
「鳳凰編」まで来た。
この花の名前は調べた。ユキヤナギという。
タヌキみたいだなあ。
モクレンだとおもう。
形がいい。
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