「浮雲」を観に行く
1955年に作られた日本映画。
主演しているのは森雅之と高峰秀子。
監督は成瀬巳喜男(なるせ みきお)。
坂道をズルっズルっとずり落ちていくような暗さがすごい。展望がまったくない。希望もない。凄いな、見事だなと思うほどだ。
この暗さは<戦後>でなければ作れない暗さだ。原作(林芙美子)があるとはいえ、すごいと思う。
反戦映画でも好戦映画でもないが、この映画も戦争映画のひとつだといえる。
南方(インドシナ)の戦地で出会った男と女が、ひかれあい関係を持つことになるのだが、戦争は終わり、内地へもどることになる。
日本へ帰ってきてからの南方の戦地で愛しあった男と女の物語。
帰ってきた男(森雅之)が帰ってきた女(高峰秀子)に再会し「これが敗戦なんだ。」と言うところがあるが、納得した。映画を観ていて納得した。
帰還兵の富岡(森雅之)が内地の、日本の社会のありさまを見て言う「敗戦」というコトバに納得した。
ぼくは吉本隆明が太平洋戦争の終わりを「終戦」と呼ばず、「敗戦」と呼ぶことに、そのことにはげしく執着することに、正直ピンとこない思いがしていたが、『浮雲』のこの富岡の「敗戦」はよく分かった。
太宰治ばりのどうしょうもないダメ男の富岡(森雅之)とゆき子(高峰秀子)の戦争を背景にしたよじれた愛の物語。
成瀬巳喜男監督というのはメロドラマの名手なのだそうだ。
いちばん最初に音楽がながれたときは、いい音楽だなとおもった。しかしだんだん音楽は映像に合わなくなってくる。音楽がメロドラマ的になってくるのだ。
くりひろげられている映像、物語はリアルだ。白黒の映像の坂道をずり落ちていくような男と女の絶望の物語なのだ。
そこにメロドラマふうの音楽がながれる。
習性なんだろうかな。
成瀬巳喜男監督の。
最後のほうは目の前に展開している物語とながれる音楽がまるで合ってないのだ。
どうしてもメロドラマ調にしないと気がすまなかったんだろうか。
物語の展開の終局は、怠惰と絶望の男、富岡(森雅之)がようやく戦争の傷をいやしてまともな職について働こうとするのだが、つまり絶望の物語は展望にむかうことになる。坂道をずり落ちていた富岡はなぜか、上がり道にはいっていく。ぼくはてっきり森雅之と高峰秀子は自殺するんだろうと思って観ていたので、釈然としなかった。
こういう原作だったのだろうか。成瀬巳喜男監督はこのまま怠惰と絶望の坂道を二人にずり落ちさせるのが怖くなったんじゃないのか。
習性なのか。
あのままなら文字通り日本映画の金字塔の一つになったと思うが。
あのぞっとするような暗さ、富岡のゲンナリするだらしなさ。
滅多にない映画になったと思うんだが。
悲惨な物語なのに、メロドラマ的な終わり方をさせてしまう。
でもあの坂道をずり落ちていく暗さが眼にのこる。やはり日本映画のなかで独特の地位をしめる映画だといっていいとおもう。
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