« 2017年1月 | トップページ | 2017年3月 »
ヤバイんじゃないかな。「テロ等準備罪」。いわゆる共謀罪。2月21日の朝日新聞の朝刊にテロ等準備罪の世論調査の結果が載っていて、賛成44%、反対25%とあって、がっくりきた。
よく読めば賛成44%、その他・答えない31%、反対25%で、要するにテロ等準備罪というものがどういうものか多くの人が知らないんじゃないか。
ぼくも法律のことにくわしい人間じゃないが、この「テロ等準備罪」の元になっている「共謀罪」のことは前から新聞で読んだり、テレビで見たりして、だいたいのイメージはつかんでいる。
あることをやったら、相手とかが傷ついたり、被害を受けたりして、そのやったことにたいして、それはイカンとそのやったことが罪になったりするのが、犯罪というものだと思うけれど、犯罪というものの基本的な形だと思うけれども、共謀罪というか「テロ等準備罪」というのは実際に犯罪を行わなくてもその前の段階で罰することができる法律のようだ。
新聞やネットで調べていくとじつは日本にはその前の段階で罰する法律がすでにあるらしい。新しく出されている「テロ等準備罪」というのはそのうえをいく、その前の前の段階で罪として罰されるもののようだ。
いったいどうなるんだ。
運用次第では考えたり思ったりしたことを、そのことを人に話したりするだけで犯罪になるということがありうるんじゃないか。
この法律が成立し、この法律によって捕まる人間が出てき、そのことが報道されるようになると、そういう事件が何度も起き、その都度大量に報道されるようになると、ぼくたちは自分がしゃべったことや相手がしゃべったことによって、自分がその場にいることによって捕まることがあるのだと意識するようになる。
そのことを意識してしまえば、ぼくたちの日常というものはまたすこし圧迫を受けることになる。
もういいんじゃないか。
日本は管理社会で、同調社会で、ほとんど全員が同じようなテレビの情報に接し、同じような新聞の情報に接し、同じようなネットの情報に接している。もういいだろう。
日本の社会はもう充分に萎縮している。これ以上萎縮させてどうなるというんだ。
バラク・オバマがアメリカ大統領に就任した日、2009年1月20日を写真と文で記録した本。
これを企画した人は2009年1月20日を特別な日と考えた。黒人のオバマがアメリカという国で大統領になるということが。
世界中の人びとにとっても熱くなる日と考えたようで、世界のいろんな地域の、国の、多くの写真家に2009年1月20日の写真を撮ってくれと依頼する。その場所の、その日を、写真に撮って、その写真についての文章も書いてくれと依頼する。
その2009年1月20日という日への熱さが微笑ましいのだが、実際のところ、アメリカの威光は世界中のどこにでもとどいているわけでもないし、とどいていたとしてもそこで生きている人たちにはわからない、気づかれていなかったりする。頼まれた写真家にしてもオバマが大統領になることにそれほど関心を持っていない者もいる。
この企画ならオバマが大統領に就任した式の行われた場所だけを、180万人集まったというその会場だけを、そこだけをいろんな写真家に撮らせて、アメリカじゅうから集まってきたいろんな人たちの表情、様子を撮らせて、それを文章に書かせたほうがよかったと思う。この写真と文章の本を読んでいて、そう思うのだ。
そのほうがこれを企画した人の熱さを生かせたろう。
しかし、それとは別にして2009年1月20日の世界のあらゆる場所、アメリカ、カナダ、南米、ヨーロッパ、アフリカ、中東、アジア、ロシア、ウクライナ、オーストラリアといったそれぞれの場所の情景、風景、光景、そこに生きる人たちの表情、様子をとらえた写真と文が、それはそれで興味深いのだ。かなり興味深く読みすすめられる。
そんな本だ。
砂糖をいれて飲むと身体が落ち着く。
「花の風景」と思ったが、花じゃないよな。
国民に開かれているという在り方が国家としていい在り方だとすると、国民に充分に開かれている国家というのは、世界のどこにもないのかもしれないが、中国やロシアにくらべればアメリカははるかに開かれた国家といっていい。中国やロシアは怖い国だ。
将来日本が中国の制覇権に入ることを考えるとゾッとする。
はげかかっているが、大学通りと書かれてある木の立て札を撮った。
貝原益軒の『養生訓』(伊藤友信による現代語訳版)に呼吸について書かれてあるところがあってなるほどと思った。
いまの整体などの呼吸についての考え方と基本的に同じで、この人が日本での先達者なんだろう。
「呼吸はひとの鼻からたえず出入りする息のことである。呼(こ)は出る息で、身体の内にある気を吐き出すことである。吸(きゅう)は入る息であって、外気を吸うことである。
呼吸はひとの生気である。呼吸がなくなると死ぬ。ひとの体内にある気は天地の気と同じであって、内外あい通じている。ひとが天地の気の中にいるのは、魚が水中にいるようなものである。魚の腹中の水も外の水と同じく出入りしているのである。
ひとの体内にある気も天地に満ちている気と同じである。がしかし、体内の気は内臓にあるので古くなってよごれている。天地の気は新鮮で清らかである。だから、ときどき鼻から外気を多く吸いこむとよいのである。吸いこんだ気が体内にいっぱいになったならば、口から少しずつ静かに吐き出すこと。荒々しく早く吐き出してはいけない。これは古くよごれた気を吐き出して新しい清らかな気を吸いこみ、新しい気と古い気との取り換えであるからである。」
江戸時代の健康本とでもいうべき貝原益軒の『養生訓』はトイレの中にはいったとき読んでいる本で、なぜかというと、ぼくの所のトイレは便座が暖まっているというような温熱の機能はないので、しばらくは、ある程度は便座が暖まるまで、ズボンをはいて座っていて、ある程度は暖まっただろうと思われるころにズボンを下ろして、すべきことをするようにしているからだ。
だいたい5分から10分くらいそうしている。そのあいだに読んでいるわけで、和式のトイレだとこんな時間は必要ないのだが、まあ本を読めているわけだからよしとしよう。
『養生訓』を選んでいるのは気楽に、身体を緊張させずに読める本だからだ。ズボンを下ろした後も読んだりすることがあるわけで、そうじゃないとまずいのだ。断章ふうの言い切っている文章で、リズムよく読める。2、3行で終わる文章も話も多くて、どこで読み終わっても都合がわるくなるということのない本なのだ。
出だしがなんともいえずいい。
たぶんバッハの無伴奏チェロ組曲というのだとおもう。
情報を選ぶ時代になったとはいえる。
ぜんぶ見、ぜんぶ読んでいると腹具合がわるくなるような感じだ。中心軸がブレだすというか。なにも信じられなくなるというか。そして品性のわるい方に落ちていくのだ。
最近のコメント