「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」
渋谷の「シアター・イメージフォーラム」に『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』を観に行った。
ドキュメンタリー映画だ。
新聞に載っていた映画紹介兼映画批評を読んで、気持ちを引っ張られたのだ。その映画批評は魅力的なもので、かんたんにいえば、自分の作品をついに公表することなく、求道者的に生きた無名の女性写真家が、死後、偶然から写真が発見され、ネットや写真展で多くの人びとの注目と称賛を受けるようになり、世の中に認められるようになったというような話で、このドキュメンタリー映画をだいたいそんなふうに紹介していて、それにそそられたのだ。
それとネットでいろんな所を見てまわっていると、結構あちこちで『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』の広告が載っていて、金つかってるんだな、元とれるんだろうか、ネットの宣伝費は意外と安いのだろうかなんて考えたこともある。
混んでたらいけないとおもって、わざわざ平日に観に行った。
『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』
これは文字通りヴィヴィアン・マイヤーという女性を、写真家を、探しつづける映画なのだ。
どういう人で、女性で、どんな生活をしていたのか、どこで暮らしていたのか、どういう写真家であったのかをひたすら探しまわるドキュメンタリーで、この映画を作ったのは、偶然ヴィヴィアン・マイヤーの写真のネガを、未現像のフィルムを、骨董・古物マーケットでみつけた当の人であるジョン・マルーフだ。
この若者が、発見しそしてこの謎の写真家を世にしらしめようと、映画づくりにまで奔走するのだ。
このジョン・マルーフがいなければ、ヴィヴィアン・マイヤーのすべてが、写真も、生も、その人物像も世の中に流通することなく、知られることはなく、消えていっただろう。まったくひとりの表現者には一人の理解者が必要なんだ。
公式サイトには監督兼プロデューサーというかたちでジョン・マルーフが記されているけれども、もう一人チャーリー・シスケルという人物も記されている。これはたぶん映画を作った経験のないジョン・マルーフが経験のあるチャーリー・シスケルに協力をあおいだということなんだろう。
『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』はジョン・マルーフが骨董・古物市場でヴィヴィアン・マイヤーの遺したネガやフィルムのはいった箱を安い金で競り落とすところから始まり、ネガに映っている写真に興味を持ちはじめ、そしてこの膨大な量の写真を撮り、遺したヴィヴィアン・マイヤーという女性はいったいどんな人なんだと動き始める姿を順に追っていく。そして徐々にヴィヴィアン・マイヤーという女性像を浮かび上がらせていく。けっこう生々しいヴィヴィアン・マイヤーという女性の像が浮かびあがってくるのだ。
ヴィヴィアン・マイヤーには孤独ということがつきまとっている。写真しかないような感じだ。どうして作品を発表しなかったんだろうと思う。
仕事は乳母を選んでいる。これはアメリカの社会では需要のあるはっきりとした職業のようだ。
子どもに乳をあたえるということではなく、ちいさな子どもをその子の親とともに、父親や母親がいそがしいときは代わりにという感じで、子どもを一緒に育てていく。当然住みこみの仕事になる。
時間がわりあい自由になるというのが乳母の仕事を選んだ大きな理由のようだ。写真を撮りたかったのだ。子どもを連れて、外に散歩に行けたし、カメラをもって子どもたちとともに出かけて行くことができるのだ。
ひとりのときにせよ、子どもたちと出かけるときにせよ、外に出るときはカメラを必ず持って出かけたようだ。
写真家という自覚をはっきりもっていたのだ。
なぜ発表しなかったのだろう。
これにかんしては映画に登場するツルッパゲの写真家がみごとに解説している。
ツルッパゲの写真家は、ヴィヴィアン・マイヤーが写真展を開かなかったのは、やらなかったのは性格のためだという。ヴィヴィアン・マイヤーの最後のひと押しができない性格のためなのだという(ヴィヴィアン・マイヤーは1926年に生れて、2009年に亡くなっている。性格ももちろんあるだろうが、古い時代のひとでもあるのだ)。
それでも写真を撮りつづけたのは被写体である街の人間たちとコミュニケートする機会をもつ写真でもあったからだという。
つまり街の人間にヴィヴィアン・マイヤーはカメラを持って近づく、ある緊張感がうまれようとするが近づく、被写体が、街の人間が拒絶反応をおこす直前の距離までちかづく、そこで停まる。彼女はその距離を心得ているのだという。
ツルッパゲの写真家はそういうようなことを言っていて、なるほどなあ、ダテにハゲているわけではないのだなあ、と特に彼女の孤独はそういう写真を撮ることをうながしたと言っているわけで、それが写真を撮りつづけるエネルギーになっていたのだといっているわけで、そのことに納得し感心した。
いやさすがだな、答えをもらってしまったと思った。
しかし観終わって帰りの電車のなかで吊り革につかまっているときに、渋谷駅から山手線の電車に乗って、吊り革に身体をもたせてしばらくたったとき、ヴィヴィアン・マイヤーの写真は「人間を風景のように撮っている」という印象が浮かびあがってきた。
これはどうかんがえたらいいのだろう。
思い出すと、たしかに対象とコミュニケートしているような写真もあったように思うが、しかし街の人間を風景のように撮っている写真もあったと思うのだ。
対象と関係をつくっているような写真もあるが、風景のように撮っている写真もある。
観終わった全部の印象でいえば、ヴィヴィアン・マイヤーはひとつのある状態でのみ写真を撮っていたのではないのかもしれない。
発表しなかったことでいえば、写真展を開いて人にみせることも考えていたようにとれるところもあったから、時期が、あるいは季節というものがあったのかもしれない。
発表することなど考えていない、写真を撮ることだけを考えていた時代。
発表することが必要だと考えた時代。人に見てもらいたいと思った時代。
世の中に認められたいと思った時代。
世の中に認められることが必要だと思った時代。
いくつかのプロセスをもっているんじゃないか。
人を風景のように撮ったのは何故だろう。人と関係をつくっている写真と、そうではなく風景のように撮った写真があるのは何故だろう。
それは一直線のなかのはっきり分かれた、前と後のような時代なんだろうか。それとも同在してあったことなんだろうか。
かんたんなことをいえば、街の生きている人間にちかづくのがむずかしかったときもあったろう。相手は生きている人間だ。赤の他人が、カメラをもって突然あらわれ、ちかづいてくるのだから。用心はする。
現在のアメリカや日本の社会は管理社会といっていい。その社会よりも人との関係がゆるかった時代、そういう時代に多くの写真を撮っているから、今よりも撮りやすかっただろうが。
同在していたのか、分かれていたのか思いつかない。
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それからぼくは家で、インターネットで「ヴィヴィアン・マイヤーの写真」を検索し、ヴィヴィアン・マイヤーの写真をもう一度みてみた。
いちおう見れるだけみて思ったのは、対象次第だったのだろうかということだ。これは新しい答えだ。
同じ時期に対象との距離が遠いのと、近いのとが同居しているんじゃないか。対象の人間との「関係」が成立するか、しないかは文字通り対象次第だったのではないか。街次第、相手次第だったのではないか。
そのときのヴィヴィアン・マイヤーも含む「街の状態」だったのではないか。
基本的に街の人間のスケッチで、その「関係」は対象次第ということだったんじゃないか。そんなふうにおもえる。
これがぼくのネットに載っている写真をいちおう見れる範囲でみたことの結論だ。
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晩年のヴィヴィアン・マイヤーがよくすわっていたというベンチをおもいだす。
ヴィヴィアン・マイヤーは最後まで写真を撮っていたのだろうか。
生涯写真を撮りつづけたのだろうか。
その海か湖の前にあるベンチに一日中といったような状態ですわっていたらしい。
近所に住んでいた人間がそう証言している。
映画のなかで、そのとき彼女がカメラを手にしていたという話がでてこなかったのが気になる。
最後は写真を撮ることをやめてしまっていたのだろうか。やめているなら、悲惨だ。
写真を撮るということをあきらかに選択したひとが写真を撮るということをやめたのだ。
なにかが彼女のなかで終わってしまったということだと思える。
終わったんだろうか。
それとも年取った人が多少ボケて、写真を撮ることもできなくなったということなんだろうか。
どうなんだろう。
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