「それでも夜は明ける」
見ごたえのある映画だった。ストレートな映画。こういうタイプの映画はひさしぶりに観る。
時代は1841年。南北戦争の始まる前。ニューヨークに住む自由黒人のノーサップはバイオリンの演奏家として働いていたが、ワシントンでいい仕事があるという誘いにのる。仕事を持ってきたのは二人の白人男だった。この男たちは黒人を誘拐しては奴隷として売りとばす奴隷商人の一味だった。ノーサップはほかの黒人たちとともに南部のルイジアナに売られてしまう。奴隷となったのだ。
自由黒人という名称からして変であり、ふつうに働いていた、家も家族もある男が拉致され、売られ、奴隷とされ、自由を失うのがなんとも妙であり、おそろしくもある。自由黒人ということそのものが例外的な、不安定な立場なのだ。
奴隷制度の凄まじさ、ひどさ、過酷さが克明でリアルな映像で描かれる。奴隷も人間を奴隷として扱う側も堕落する。いくつかの映画評で取り上げられているノーサップが首つりをされる長いシーンはやはりすごい。けっきょく命は助かりはするのだが、このシーンで奴隷制度といったものがわかってしまうのだ。
奴隷たちは仲間が首つりされていても誰もたすけない。助ければただではすなまいのだ。処刑しようとしていた白人たちがその場からいなくなっても誰もたすけない。首つりされているままのノーサップのそばでこどもたちがいつもとおなじように遊んでいる。まるでいつもの「平穏な日常」がつづいているようなのだ。ノーサップはひとり必死でつま先を伸ばし続けかろうじて足が地面についている。ロープは首にかかったままだ。その場面が静かに長くつづく。すごいシーンだ。
おそらくこういうもんだったのだろうなと思う。こういう実態だったろうし、こういうことは起こったのだろうし、奴隷にされた黒人たちの風体、様子はもっと惨めなものだったのだろうと思う。
ソロモン・ノーサップは12年間奴隷として働かされ、ボロボロの身体になるが、一計を案じ、ようやく出会った奴隷制度に疑問をもつ白人にも助けられ、なんとか自由の身になる。しかしおなじように農場で働かされていた黒人たちはそのままだ。農場主の異常な愛にふりまわされ、それを嫉妬する妻には虐げられ、耐えきれずノーサップに殺してくれと頼む若い黒人女パッツィーもそのままだ。農場から去るノーサップをみつめながらじっと立ちつくすパッツィー。ノーサップだけが助かったのだ。このへんは正直に描いている。
すくなからぬ観客たちが、じゃあ今の日本はどうなんだろうと考えさせられただろう。おなじではない。しかし似ているところはある。このことが重い。
監督はスティーヴ・マックィーンというイギリスの黒人。スティーヴ・マックィーンという名は代替わりしたのだ。
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