「涕泣史談」(ていきゅうしだん)
柳田国男の『遠野物語』(集英社文庫)のなかにはいっている「涕泣史談」が面白かった。
「へぇー」とか「なるほど」とか思いながら読んだところがいくつかある。そのなかのひとつをあげておく。
「表現は必ず言語に依(よ)るということ、是は明らかに事実とは反している。殊に日本人は眼の色や顔の動きで、かなり微細な心のうちを、表出する能力を具(そな)えている。誰しもその事実は十二分に経験しておりながら、しかもなお形式的には、言語を表現の唯一手段であるかのごとく、言いもしまた時々は考えようともしている。」
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むかし「涕泣史談」とか読みました。たしか柳田は「子供に親が泣いていてはわからないからその理由をきちんといいなさいと叱る。最近そういう風潮があり、それはすべて言葉に可能にできるとみなが思い込みすぎているのではないか。ひとは言葉にしがたい思いを抱くから泣くのである」みたいなことをいっていて、すごく腑に落ちたことがあります。でも柳田の文章はなんとなく僕にとっては読むのが難しくて、あまりたくさん読んでいません。
投稿: 石川 | 2009年7月 8日 (水) 08時52分
たしかに石川さんが言われているようなことが
書かれてあったように思います。うるおぼえですが。
「遠野物語」そのものの文章は読んでいて、ぞっと
するような怖さがあるんですが、さすがに文章が古
く、読みにくいです。
投稿: 布村 | 2009年7月 8日 (水) 09時59分