映画・テレビ

2009年10月12日 (月)

「ヴィヨンの妻」を観る

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 『ヴィヨンの妻』(根岸吉太郎監督)を観に行った。

 チラシでみる松たか子は不幸な人妻にしては表情の骨格というか人格が大きすぎる、立派すぎるようで、この役に合うんだろうかと思ったが、映画が始まってみれば、チラシとは別だった。

 美術のいい映像の色合いのいい映画。太宰治をモデルにしたような作家とその妻の物語。

 戦後すぐの雰囲気がよく出ているシブい映像と主な登場人物たちの妙に人工的な会話と、美術に感心しながらも、映画がただよっているようで、これは中心軸といったものを持たない映画で、こういうものだと思って観ていればいいのかと思ったが、ほかの女と心中未遂事件を起こして留置場に入れられた作家(浅野忠信)に妻の松たか子が会いにいき、網入りガラスごしに話す場面から切迫感がでてくる。

 映画に重りと中心軸が生まれてくる。どこを観ればいいのか分かったような気持ちだ。チラシを観て違和感をもった松たか子の表情が出てくる。映画の流れのなかでは当たり前のものとして観ることができた。「ヴィヨンの妻」はそういう体験をしたのだった。

 最後はストップモーションの映像になるのだが、妻が左手で夫の手をつないで「生きてりゃいいのよ」と言ったようなその映像はよい終わりよい映像だった。

2009年9月29日 (火)

「空気人形」を観た

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 『空気人形』(是枝裕和監督)を観に行った。

 「人間になろうとした空気人形」の悲哀、痛みを、人形の真っ白い心を韓国女優ペ・ドゥナがピタリと演じている。たどたどしい日本語が合う。

 人形が人間のようにしゃべり、働き、恋をして、歩きまわって、それで物語が進行していくというのに観ていて違和感をもたない。何とも不思議な映像の波動というか、微妙な円環した世界が造られているのだが、人形の「生みの親」のオダギリジョーがでてきてから、このバランスがくずれる。このあとのつらい結末までもっていく映画的理由はないと思うのだが、原作があるらしいから仕方ないのか。ぼくはもったいないように思った。

 風景がよかった。高層ビルとボロい低い建物がすき間なく並んでいる街の映像は、それを一つにとらえている映像は、なつかしいようなさみしいような親しいような気持ちにさせる。

2009年9月22日 (火)

「柳生武芸帳」

 『柳生武芸帳』(稲垣浩監督・1957年 東宝)を観に行く。

 1950年代の日本映画ならまずハズレはないだろうと思って行ったのだが、面白い!とまではいかなかった。オールスターキャストであることと忍者役の三船敏郎の動きがいいことが目についた。三船敏郎は体力のある役者だったんだなあ。

 受付のあるフロアに劇場や映画祭などのチラシが置いてあって、その中の一枚、石原裕次郎のそばで顔をあお向けてかすかにほほえんでいるような浅丘ルリ子がたとえようもなくセクシーで美しい写真のチラシ。日活映画『憎いあンちくしょう』の一場面。この日いちばんの映画的収穫だった。

 映画館のある一角の地下が芝居のできる小屋になっているようで、けいこ中なんだろう、ときどき役者たちがタバコを吸うためにあがってくる。よくタバコを吸う人たちだ。この人たちはどうなるんだろうと思ったり、ひさしぶりに映画館のある阿佐ヶ谷にやってきて、なじみのある街だから、自分の変わりようにハッと気づいたりしていた。

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2009年8月23日 (日)

「世界ふれあい街歩き」

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 いまテレビで気に入っているのはNHKの『世界ふれあい街歩き』という番組。

 世界のいろんな街を紹介する番組でそのゆるいゆっくりとしたテンポがいい。見ていてくつろぐ。ナレーションを担当する人は毎回変わっているようだが、一貫してゆったりとしたしゃべりだ。新聞のテレビ欄でみつけると必ず見ている。

2009年6月28日 (日)

「剱岳 点の記」(つるぎだけ てんのき)

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 映像のすごい映画だ。本当に凄い。

 山の実録というか、ニュースや記録映画ではこれほど山の自然の凄さを写し取ることはできなくて、俳優を使い山を舞台にした映画を撮るという設定によってはじめて、この山の凄さを撮ることができたのだと思う。

 ふつう才能というのは、「世界の中心はお前だ」とごく自然に、当り前に、正しく育てられた子どもが大きくなって、時代の強大な圧力にさらされながらも、割合あっさりと、自分のほうに軸足を移せることによって生み出されるオリジナリティーだとすれば、監督の木村大作の才能はかなり特異だ。

 山の自然に<私>というものを溶け込ましてしまいながら、私というものを完全に拡散させてしまいながら、すぐれた「作品」を生み出すことができている。例外的な人なんだと思う。

 新田次郎原作の、剱岳を初めて測量しようと登山する人間たちの映画、というよりも初めて人間によって測量されようとする剱岳の物語の映画といったほうがいいだろう。

2009年4月25日 (土)

「スラムドッグ$ミリオネア」

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 観てよかったと思った映画。最後は心が熱くなった。

 インド・ムンバイのみなし児になってしまったふたりの幼い兄弟。スラムで育つことになった兄弟のたどる過酷にしてハードな運命。癒される映画ではないが命の息ぶきは感じることができる。

 観ていて、すげえ世界があるもんだなと思った。インドのみなし児たちは悲惨だ。日本に生れてよかったというべきか、似たような時代は日本にもあっただろうが。

 スラムの負け犬と呼ばれる主人公ジャマールはタフだった。疑うべきか、信じるべきか、このむずかしい道をちゃんと切り抜ける。

 『レッドクリフ・PartⅡ』を観ようか『スラムドッグ$ミリオネア』を観ようか迷ったが、この映画で正解だったと思う。

2009年2月 8日 (日)

晴れ、そして辺見庸

 2月1日、NHK教育テレビのETV特集『作家・辺見庸・しのびよる破局のなかで』を観た。それまではテレビ朝日の『パイレーツ・オブ・カリビアン』を観ていたので、10チャンネルから3チャンネルにもっていくのに、力がいった。いったが、3チャンネルに切り替えた。

 辺見庸ほど、リアルに「今」を語れる人はいないと思った。じつによく見ている。話を聞いていて、恐ろしくなった。日常というものを否定されたように感じる。しかし日常というものは人間の「生きていこうとする志向」が生み出したものだともいえる。

 辺見庸の言うことをそのまま身体的に、全体で、受け入れると、「生きていこうとする力」を失ってしまうように思える。そこで辺見庸はいわば、自分の語っていることにどうやって耐えているのだろうと、テレビの画面のなかの、辺見庸の表情や体の動きを注視した。今のぼくの関心、テーマではそこにいってしまうのだ。そしてみえてきた。辺見庸の「スタイル」がみえた。

 あれから何日か経ったわけだが、辺見庸のテレビの画面のなかの表情が残像のようにのこっている。それは「スタイリッシュで」「陰鬱で」「恥を知っている」「影の中で社会の底をじっと見ている眼」だった。ぼくは日常を選ぶ人間だけれども、しかし、辺見庸の言ったことは、日々の暮らし、テレビ、新聞、インターネットのニュース記事、それらを受けて生きているぼくの、視覚や聴覚の底にあるもの、その破片の集まりの回路をたどると確かに、その「像」その「考え」は浮かびあがってくるのだ。

 正月に田舎に帰ったとき、買ったのが、よしもとばななの『彼女について』と村上春樹の文庫本『海辺のカフカ』(上)だった。『彼女について』は読みだしていたが、新聞に書評が載って、その印象が残っているので、いったん止めて、村上春樹の『海辺のカフカ』を読んでみたい。何か書けることがあるなら、書いてみたい。

 そしてその前に、福島敦子さんの詩集『永遠さん』の批評をやってみたい。

2009年1月 5日 (月)

「吉本隆明語る」

 NHK教育テレビ・ETV特集『吉本隆明 語る』という番組を観た。観ているあいだ、ぼくは幸せだった。(ただしく言えば講演中の吉本隆明の表情を観ているあいだ)。ビデオに撮ろうとしたが、ビデオデッキの録画能力がもう駄目になっていて、これは集中力を全開させるということを考えれば、この方がよかったと思う。

 足が不自由なようだったが、全く問題なかった。講演時83歳ということを考えれば、かなり丈夫な83歳ということになる。

 娘のよしもとばななさんの公式サイトの日記で、吉本隆明の動静というか、様子をときどき知ることができるが、これは娘さんの書いた父親のことということであって、ウのみにすると間違うというか、日記に書かれる吉本隆明よりも、テレビで「生」で観る吉本隆明ははるかに大きな存在とみえた。

 あまりにも吉本隆明の影響を受けているので、いまは吉本隆明の本は読まないようにしているし、相対化しようということのなかで、ぼくは吉本隆明を矮小化してしまっているところがあるなと思った。

 ぼくが信頼している身体の専門家の生活環境比較論のようなものや、何をされたわけでもないだろうが、吉本隆明を恨み骨髄に思っている詩人の話や、矮小な人間たちの矮小な人間観を聞いていたりしているうちに、ぼくはその影響を受けていた。

 足はダメでも頭と心はちゃんとしているという<からだ>の状態はあるんだなと思った。講演中の吉本隆明の表情を観ていて思ったのは、吉本隆明は「自分でつくりだした生をいきている」ということだった。

 生活イコールではない、体イコールでもない、それにすべて還元されるわけではない、「自分でつくりだした生をいきている」ひとの表情を観ていて、ぼくは幸せだった。こういうふうに人は生きることができるのだと思った。83歳という年齢は介護のよしあし、住居のよしあし、体のよしあしに影響されるだろうが、そのすべてを足しても、いまの吉本隆明という存在が表わされるわけではなく、「自分でつくりだした生をいきている」ことがプラスされて、はじめてこの人の今が語れるというものだ。

 吉本隆明自身、話のうまい人じゃないし、表情を注視していたこともあって、講演の中味、言ったことの内容はあまり分からなかった。ひっかかったのは、「表現すると、表現したことが自然にあたって、はねかえって、じぶんに影響をあたえる。表現するとそのことによって自分は表現した方向へと変化する。自然との関係によってたしかに変化する」ということ、(だいたいこんなこと言っただろうと思う)。ほかは講演が終わって、家に糸井重里が訪ねていって、話を聞いているとき、「1000年前の人間は思ったり、考えたりしたことを表明しようとしたら歌以外にはなく、歌にすべてがこめられたが、いまの人間は歌ひとつということではなく、いろんな関心が存在するから、いろんな知識を得てしまったから、歌ったとしても、こめられる力は1000年前の人間のように単純に強烈に、とはいかない。歌ひとつというわけにはいかない。1000年前のような強い歌はつくれない。歌としては今のほうが落ちる」というようなことで(だいたいこんなこと言っていたと思う)。これらはぼくのアンテナにひっかかった。

 この社会にふつうに流通している言葉で感じ、考えなければ、心・技・体が働いていないのであり、つまりちゃんと考えていないのであり、抽象的な言葉では頭は働いているかもしれないが、それはちゃんと考えていないのだ。というのが今のぼくの考えだが、吉本隆明は例外的に頭で考えることが、心・技・体で考えているような人だった。

 人の言葉で生涯を生きてしまうのはあまりにも悲しく、また吉本隆明というひとは人に影響をあたえやすい言葉をつむぎだせる人だから、今はやはり読まないほうがいいだろうと思う。

 ただ影響から離れたいと思うあまり、矮小化してしまうことなく、その大きさを大きさとして受けいれていたいと思う。

 ぼくの能力(タイプがちがう)や勉強量では吉本隆明の仕事を咀嚼してのみこむことは無理であり、丸飲みということになりやすい。いい距離で、ヒントをもらうように読めるときがくるだろう。そのときまた吉本隆明の書いたものを読んでみたいと思う。

 本だけでなく、糸井重里さんがしゃべりを録音、保管しているようであり、これはいい距離で吉本隆明を「読む」ことの手段になりうるのかもしれないと思った。「聞く」というかたちで吉本隆明の仕事に接するのも面白いだろう。

2008年12月25日 (木)

怪人二十面相を観た

 12月23日、祭日の日に『K-20怪人二十面相・伝』を観に行った。

 窓口で通路わきの後ろの方と席の希望を言ったが、

 「お客様、本日残っているのは前の方か、うしろはこの席しか空いておりません」ということで、後方中央の席となった。

 『K-20怪人二十面相・伝』。原作北村想。北村想というひとはどういうつもりだったか、今はわからないが、切り抜き用のファイルに北村想「屋根の上のインド人」というエッセイが入っている。

 何新聞のものかわからない。「育む・学ぶ」という欄にあるエッセイだ。このエッセイで自分は空想癖があり、「頭の中で作った物語の世界に同化して、・・・」と書いてある。『K-20怪人二十面相・伝』のラストの想定外の展開に、北村想の空想癖が爆発するところを観たように思った。

 「お客様、本日残っているのは・・・」と言われた場合、けっこう空いている席があったりするのだが、その日は本当に満員だった。スクリーン前の席まで客が座っている。

 映画が始まる。怪人二十面相。明智小五郎。怪人二十面相にまちがえられる男。前半はダイナミックな展開がないと思ったりしたが、停滞を抜ける。観終わった感想をいえばよく出来ていた。美術は見事。日本映画としては快作の範疇にはいるといいたいが、断言できない。

 というのは祭日の日の後方中央の席は鬼門であって、その日となりに座ったのは、よくしゃべるオバサンたちだった。黙っていられないんだな。反応がいいのはいいが、いちいち声にだす。こういう場合、あきらめて、状況を受け入れることにしようと、このごろはそう考えるようにしているが、集中力全開とはいかなかったのだ。

 監督・脚本は佐藤嗣麻子。物語の展開のはしょり方がうまい。出演は金城武、松たか子、仲村トオル。

 となりにあまりしゃべらない客が座れば、じゅうぶん楽しめる映画のはずだ。悪党に深みをあたえると映画は生きる。

2008年12月23日 (火)

「幸四郎弁慶夢に舞う!」

 テレビで『幸四郎弁慶夢に舞う!」というドキュメンタリースタイルの番組を観た。

 昼の2時から始まる番組で、その日は『K-20 怪人二十面相・伝』という映画を観に行く予定だったので、30分ほど観て出かけるつもりだったが、その30分を観ているうちに出て行くことができなくなった。

 歌舞伎役者というのはすごいカラダをしているんだなと思った。花道での「飛び六方」だというのだと思うが、それを観ていて、そう思った。「飛び六方」をやった弁慶役の松本幸四郎が階段を下りてくるとき、足は外開きになっており、その映像をずっと観ていると、役者のカラダというものをまざまざと感じた。

 人に完璧主義といわれてしまう人間の、じぶんにではなく、舞台に自分を合わせようとする、周囲にもそれを要求するツラサが見えたし、役者の家、家族というものがどういうものかもよく映っていた。松本幸四郎の家、家族というものは、要するに高麗屋という九代目松本幸四郎を柱にした家なのだ。一家なのだ。

 石坂浩二のよく番組に合っているナレーションを聴きながら、ほかにもいろんなことを思った。松本幸四郎はだいぶ前に煙草をやめたはずだが、パイプをくゆらしていたこと、華やかな松たか子が、高麗屋・松本幸四郎一家の娘の顔になっていたこと、松本幸四郎の奥さん、高麗屋の女房がざっくばらんなこと、あまり表にでてこない松本紀保が洗練された感じの人であること、市川染五郎の息子が美形であること、などなど。

 映像から目を離さずに観た番組だった。仕事のストレスを吐きだすためとにかく外に出ていこうと決めていたが、最後まで観てしまった。

2008年11月16日 (日)

「レッドクリフ」

 映画館のホームページをみて、どれが一番楽しめそうかとながめていて、これだと思った。これとは赤壁の戦い、『レッドクリフ』。

 三国志の劉備と曹操の戦いのハイライト、赤壁の戦いに材を取った映画。

 大型テレビドラマみたいだなあと思いながら観ていたが(実際そういうところは最後まである)、戦闘シーンが始まると引き込まれた。

 監督のジョン・ウーは俳優の細部の演技などには興味がないようで、戦闘場面のエキストラの演じる兵士たちの緊迫感のなさ、中国の時代劇に当たるだろう映画なのに、現代劇風の演技をする俳優もいて、しらけるところもあるが、アクション戦争映画としてはかなり面白い映画だ。

 ジョン・ウー監督は何よりもアクションシーンに関心があるようで実際よくできている。物語性のある戦闘場面とでもいうものを作っている。2時間半ほどの上映時間がはやく過ぎた。最後にパート2の予告編がでてくる。観たのはパート1。パート2がある。

 俳優のなかでは諸葛孔明を演じる金城武と孫権を演じるチャン・チェンが好演している。

2008年8月31日 (日)

「カムイ外伝」のこと

 『カムイ外伝』(崔洋一監督)で「老農民」をやっている奥村真さんから映画の話をちょこっと聞いて俄然観てみたくなった。ぼくが観たい、観ようと決めているのは、マーティン・スコセッシがローリング・ストーンズを撮った『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』だけだったから、もう一本増えたことになる。いいね、わくわくすることが増えるのは。

2008年8月10日 (日)

「崖の上のポニョ」を観にいく

 宮崎駿の『崖の上のポニョ』を観に行った。『崖の上のポニョ』ではなく、宮崎駿の『崖の上のポニョ』を観に行ったというのが気持ちのなかのものだ。

 この映画では宮崎駿の能力というか、才能というか、天才的な表現能力を感じた。

 宮崎駿の能力がでているのは、「絵」だ。『崖の上のポニョ』は絵の映画といえる。

 背景の絵がいい。木、林、森、雲、波。台所の壁のタイル。それらは大胆にシンプルで象徴的で、これに目が吸い寄せられる。特に映画のはじまり近くに映る「草はら」が素敵だ。

 これら背景の「絵」に魅せられた。

 物語の展開する場所は、ぼくの田舎の瀬戸内海の海べりのちいさな街を想い起させる海の街。日本の海の街だ。

 ポニョというのは、人面魚というか、人間にみえる魚というか、魚を人間にみえるように描いたというか、ちいさな魚のことで、このポニョの父親はフジモトというもと人間(海のなかを自在に行動する)、母親は海の魔女(デカくなったり、人間サイズになったりする)というまか不思議なもので、ポニョは魔法の力を、超自然的な力をもっているのだ。

 そのポニョと人間の5歳の男の子、宗介との友情というか、ほとんど生きもの同士がもつ、秘めている、通い合いの物語だ。

 子供のためにつくった映画だと宮崎駿は言っていたように思うが、ぼくの左のほうに坐っていたやはり5歳くらいの男の子は飴玉をバリっバリっと噛みくだきながら、文字通り、映画に観いいっていた。つくった宮崎駿は67歳だと思うが、よくこれだけちいさな子供の目線でものをみることが、ものを作ることができるもんだと心底おどろいた。

 奇想天外な物語は、最後ポニョが人間の5歳の女の子になって終わるのだが、観ていて何処となくさみしく、何処となくあたたかい。「こどもは大人にならなくてはいけないのだなあ。」と観ていて意味もなくつぶやいた。映画が届けてくるのは、ぼくがずっと観ていたのは、「希望の熱い流れ」というものだと思う。