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2023年11月15日 (水)

ヘーゲル「哲学史講義Ⅰ」から

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「アテネとスパルタの対立は、これら有名な二国家の原理の対立として問題にされねばなりません。スパルタには芸術や学問はなかった。アテネが学問と芸術の地となったのは、アテネに独自の国家機構と精神性があったからです。

スパルタの国家機構も高く評価されるべきものです。スパルタ人はその一貫した国家機構によって、厳格なドーリア精神をきたえあげました。その国家機構の眼目は、個性を、つまり一切の個人的な特性を、共同体に、国家の目的に、国家の生活に、従属させる、いやむしろ、そのために犠牲にすること、ーーーいいかえれば、個人が国家のために働き、生き、行動していると意識するときにのみ、自分の名誉や価値を意識することにあります。個人の意志をおよそまったく消しさって、このように純正な統一をつくりあげた国民は、無敵の団結を誇り、それによってギリシャの頂点に立ち、トロイ戦争時のアルゴス人のように主導権を保持しました。

これは、本当の国家ならかならず備えていなければならぬ偉大な原理ですが、スパルタ人の場合にはそれだけに偏(かたよ)りすぎていた。アテネ人はこの偏りを避け、それによってもっと偉大な国民となりました。スパルタでは個性や人格性や個人性が軽視され、個人は自分だけの自由な人格形成や自己表現をおこなえなかった。個性は認められず、したがって、個性が国家の公的目的と合致することも一体化することもなかった。個人の特殊性や主観性の価値を認めない公的生活が、スパルタでは広く行きわたっていて、同じ原理は形を変えてプラトンの『国家』にもあらわれています。

しかし、共同体は、個々の意識をそれとして内部にふくむのでなければ生きた精神ではない。共同体は個人の直接の生活や存在をなすのでもなければ、たんなる実体をなすのでもなく、意識の通った生活をなします。共同体からはずれた個人が無力になって没落していくように、公的な面のみを強調する頑(かたく)なな制度は、個人の反抗をおさえることができない。」

 

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