埴谷雄高「思索的渇望の世界」
1970年に知り合った古い友人が沢山の雑誌を送ってくれて、そのなかに1975年11月号の『海』という文芸雑誌があって、「思索的渇望の世界」というタイトルで埴谷雄高が吉本隆明と秋山駿を相手に自らの世界を語っている。
面白い。
おそらくこの雑誌のこのインタビューはリアルタイムで読んでいると思うが、キレイに忘れている。(たぶん立ち読みで読んだんだろうな)
埴谷雄高は軽いところがあるなとあらためて思うけれど、暗くも深くもありやっぱり興味がもてる。
記憶力がいいなと思う。このインタビューで自分の来歴を細かくていねいに独特の語り口で論理的に語っている。
よく覚えている。長いインタビューだ。
埴谷雄高が太宰治と交流があったということには驚いた。タイプが違う。意外だった。
埴谷雄高と吉本隆明は後の反核運動での対立が決定的なこととして印象に残っているが、戦前、戦中、戦後について話ができるというか、この問題については細かく熱く語り合うことができるのだ。世代は違うが同じ時代を生きてきたのだ。この人たちにとってこのことは大きい。
これに秋山駿が加わってくると、戦後の問題というのは世代によって、とらえ方がちがってくるのだと認識する。そう認識しなければならないのだろう。
埴谷雄高の世界は一つの世界だ。
この「思索的渇望の世界」の埴谷雄高、吉本隆明、秋山駿は戦後の連続した風景の中にいて、ぼくには親しめるものだ。
秋山駿という人はけっこう面白いんだなと思った。この人の視線というのは成立しえると思った。
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