アラン・フィンケルクロート「思考の敗北あるいは文化のパラドクス」(訳 西谷修)
この本とは縁というか、因縁があって、前に読んでいるときある事情から読みつづけることができなくなったのだ。1989年12月のことだ。
この「1989年12月」というのはぼくのなかに大きく印字されている<時>で、とても大きな出来事があったのだ。
だから、「あの時読んでいて、そのとき読めなくなった本」としてぼくのなかにずっと残っていた。
そして一度読もうとしたことがあったが、すぐやめている。まだその時がきていなかったのだ。
ようやく読むときがきたと思う。
この本を開けるとメモが残っている。一度読もうとしてやめたとき書いたメモだ。
「これは今よむと何がよかったのかわからん。たぶん硬い人間だったおれが硬いまま流れていけるところをさがそうとしたのだ。全部読んではないだろう。」
今はけっこう興味深く読める。アラン・フィンケルクロートの視線に意味あるものをみることができる。
この本の前で立ち止まったのがわかるような気がする。自分が自分のまま歩いていける道を探していたのだ。
1980年代のぼくにとって緊迫した問題だった。現実の生の問題だった。よくこの本をみつけたものだと思う。必死だったのだ。
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