鶴見俊輔座談「戦争とは何だろうか」
鶴見俊輔の対談集『戦争とは何だろうか』を読んでみた。鶴見俊輔は食わず嫌いだったけれど、けっこう面白い。こだわっていてスッキリしていないところがいい。
鮎川信夫との対談で鶴見俊輔がしゃべっているあるところが目にとまった。印をつけた。何故かというと、ぼくは2000年代に入って4、5年経った頃、ある連中にひどい目に合わされたことがあるからだ。これだけ人にたいして冷酷な振る舞いをする人間というのはそうはいない、そういう連中だった。
かなり後になってわかったことは、その連中は1960年代後半から当時の政治運動、その先端にあったいわゆる新左翼の党派に入って活動していた者たちで、おそらくは内ゲバとかも相当やっていた連中のようだった。
この者たちのやったことから<荒廃>、<殺伐さ>が立ちのぼってくる。
この者たちの<闇>はどこからやってくるのだろう。
18才や20才のころ、若いときはまともだったけれど、年を取るにつれて、この社会のなかですり切れていったのか、会社などですさんだ行為、黒い行為を重ねているうちにああなったのかと、いろいろ考えたが、やはり彼らは、彼らの政治運動、革命運動のなかで<荒廃>や<殺伐さ>を身につけていったのだろうと思える。
政治運動というものには、特に党派的な政治運動には、人を<魔>のほうに引っ張っていくものがあるのだろう。
ぼくを痛めつけた見えない暴力をつかうやり方も内ゲバなど党派的な活動で身につけた「技術」だろう。
しかしぼくのなかで彼らの<荒廃>、<殺伐さ>はどこから来たのだろうという問いが収まったわけではない。ぼくの中で繰り返し鳴っている。彼らの<荒廃>、<殺伐さ>はどこから来たのだろう。何故だ。何故だ。
そういうぼくの目に鶴見俊輔のコトバが止まったのだ。答えがあるわけではないが、「気づき」というか参考にはなる。
「なぜ人を殺すのはよくないかというと、たとえ反戦運動にしても、殺すという暴力を容認すると、自分たちの仲間に対する一種の暴力的な支配が出てくる。自分の思想を暴力によって守り押しつけるというところまでいくのに歯止めがなくなっちゃうと思う。わたしはそれがいやなんです。敵は殺してもいいという考えかたは、結局は味方そのものに対しても暴力的になってくる。また自分に対して暴力的になっていく。自己欺瞞を暴力によって支えて、自分のなかに生じる疑いも全部暴力的に圧殺してしまおうというタイプになりやすい。その意味で、暴力は否定していきたいという気持ちがつよいですね。
敵に対する暴力は、結局、仲間に対する暴力的支配につながり、自分個人に対する暴力的支配につながる。」
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