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夏目美知子が参加している同人誌『乾河』でずっとその詩を読みつづけてきた。夏目美知子の詩についてぼくがもっていた印象は、冷たさを感じるほどのコトバの構築から、徐々にその構築の細部に血が通い始め、やがて構築のあちこちがひそかに、微妙に動きだしたというものだった。しかし夏目美知子の新しい詩集『ぎゅっとでなく、ふわっと』を読むと、ぼくのその印象は夏目美知子の詩の流れをちゃんとつかまえたものではないかもしれない。夏目美知子の詩の流れはそれには入っていないかもしれないと思った。
『ぎゅっとでなく、ふわっと』に収めている詩はそれの時間順に載せているのかどうかは確認しないまま書いているが、夏目美知子がその順序を選択したことは確かだろうから、夏目美知子はぼくが思っていた詩の流れとはまたちがうところにいるのかもしれない。ぼくが思っている以上にコトバの構築にひかれているのかもしれない。
夏目美知子の詩の特長は、その散文詩における表出にある。散文詩なのに読んでいると行分け詩のような表出に出会うのだ。行分け詩のような<声>、行分け詩のような<歌>、行分け詩のような<沸点>に出会うのだ。散文詩なのに行分け詩のように読めるのだ。これは夏目美知子の詩の際だった特長であって、ぼくはこういう散文詩の書き手をほかに知らない。
そしてぼくがいつも見事だなと思っていたのは、その詩の中でつかまえる「動き」だ。微妙なつかまえることのできない、ゆれる葉の光のゆらめきのような心の動きをつかまえている。一瞬表情に出てくるが、たちまちのうちに消えていくもの、しかし確かにその人の生の奥のところから出てきたもの、そういうものだ。川の流れを追っていて流れの底に光る宝石をみつけたような気持ちになる。夏目美知子の書く詩のすべてにそれがあるわけではないが、多くの詩にそれがある。ぼくはこれには本当に感心していた。見事だなと思っていた。
『ぎゅっとでなく、ふわっと』には二十編の詩が収められている。ちょうどよい。いい編数だと思う。「あとがき」がないのも夏目美知子という詩人らしいと思う。
夏目美知子はこれが最後の詩集になるかもしれないというようなことを言っている。ぼくは夏目美知子のいま生きている状況を知らない。しかしよい詩集に出会うことができたのは確かだ。この詩集を読んでいるときぼくは充実していた。
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