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2019年7月17日 (水)

吉本隆明「<信>の構造」

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 買ったまま読まないでいた吉本隆明の『<信>の構造』。予想を裏切ってよい評論集だった。昭和58年、1983年の本。

 副題に「吉本隆明・全仏教論集成1944.5-1983.9」とある。

 このなかで写真を論じている「<石>の宗教性と道具性」というのは、ぼくが読んだ吉本隆明の評論のなかでは一番出来の悪いものじゃないかとおもった。吉本隆明でもこういう評論を書くんだなあと思ったが、頼まれて断れなかったけれど、どうしても充分な時間が取れなかったというところだろう。しかし宗教と人間についての深い認識をしめす評論集だった。とくに親鸞についてのものは本当に感心した。身動きできなくなるくらいだった。

 しかしどうしてここまで凄い吉本隆明が、<世界苦>というものに真正面から対峙していた吉本隆明が、どうして変わってしまったのか、晩年というか最晩年というか、どうしてああも<中立的>というか<無場所的>になってしまったんだろうとおもう。

 そこに至る吉本隆明の充分なプロセスというものがあったのかもしれないが、吉本隆明の影響から離れようとジグザグした歩みを長くつづけていたぼくは、あえて読まない本というのもあったし、体調不良もあった。それでちゃんとたどれてないのかもしれない。しかしもう<世界苦>と対峙していた吉本隆明じゃないんだあ、というのがあって、それを認めざるえない吉本隆明というものがあって、強い不満をもったのだ。

 

 

 吉本隆明はすでに『<信>の構造』の中で1979年にこういうことも言っている。それを書いておこう。

 「現代のむなしさと不信は越えられるか」のところで言っている。

 

 「なぜ親鸞がいちばんすぐれているかといいますと、けっきょく、仏教の様々な言葉をできるだけ使わないで、じぶんの言葉でちゃんとしたことがいえてることが、最大のポイントだとおもいます。」

「たとえば、現在のマルクス主義をみればいいので、マルクス主義者であるけれども、じぶんの言葉で理論を展開している人はもう世界にいなくなりました。毛沢東は理論的な欠陥があろうとも、じぶんの言葉で、じぶんの概念を展開するという在り方を思想にたいしてとっています。それは評価さるべきとおもうし、それができるのは毛沢東が最後の人であるという気がします。」

 「あるイデオロギーや信仰が、どのようにしたらじぶんの言葉になり得るのかということになります。親鸞はその時の情況、その時代の信仰や理念が当面している問題にたいして、きわめて適切鋭敏にそのつど対応しています。その対応に則して、じぶんの考え方をじぶんの言葉でいうことができている。それは理念として信仰しているとか、概念として理念をじぶんが知っているとか、あるいは命題としてもっているかということでは間尺にあわないわけで、とにかく眼前に直面するさまざまの問題に対応していくそういう力が親鸞にあって、それが親鸞の思想になっています。」

 吉本隆明はこの「現代のむなしさと不信は越えられるか」の中で西洋の思想とアジアの思想のちがい、西洋の思想がたどりつく<神>というもの、その必要さ、アジアの思想である仏教というものの、そのかたちについても説明しているけれども、やっぱりすさまじい把握力だなとおもう。

 ぼくは最近になってようやくこういうことが分かってきたというところだけれど、だいたい全部言えてるんじゃないかと思う。

 

 

 ここ何年かで読んだ吉本隆明の本ではこの『<信>の構造』が一番すごかった。

 心の中でうなった「親鸞について」と「良寛詩の思想」のほかに、それとは別に「国家と宗教のあいだ」、「宗教としての天皇制」に強いインパクトをうけた。前にいちどは読んでいるはずだが、今度のほうがいい読み方ができている。沖縄のことを考えるいいヒントにもなった。吉本隆明のこの沖縄についての考察はいまも大きなものとして生きているとおもう。

 

 

 

 

 

 

 

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