「ゴルバチョフ回想録」(訳工藤精一郎・鈴木康雄)、下巻を読む
上巻の『回想録』とちがって、あんまり信用できない気がする。上巻の『ゴルバチョフ回想録』は用心して読みながらも、やっぱりここはすぐれた認識だなというところがあったし、ゴルバチョフがソ連の再生、より強くするための再生、そのための改革に進もうとしたことはたしかだろう。
ソ連における権力のあり方についても、それがソ連の再生と強化に必要なことと考えて、たしかに「民主化」の方向に進もうとしていたようにおもう。
ゴルバチョフはソ連の崩壊を望んでいなかった。しかし状況は乱高下し、横振れし、振動し、思惑がはずれてしまったのだ。
上巻が内政を書いたものなら、下巻は外交を書いている。ここでは上巻のように、内政を語ったときのように、ソ連の体制に疑義をいれない。ソ連の体制を完全に肯定していると感じる。そのためだろう、上すべりな記述だし、ゴルバチョフ自身の美化と正当化が多い。本当のことを書いているのだろうかとおもう。
核兵器の軍縮など、これまでのソ連の指導者たちとやったことはちがうのだろうが、外交の顔はこれまでのソビエト指導者の顔と同じような顔をしているとおもう。踏襲しているようにおもう。
とても読むのに難しい本だ。信用できるのかと問いながら読む。本当のことを書いているんだろうなと思うところもある。
『ゴルバチョフ回想録』の下巻を読みながら、ジミー・カーターの自伝を並行して読んでいたが、読み終わってしまった。そこで『チェルノブイリの祈り』を書いたスヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチの『セカンドハンドの時代』を読むことにした。ゴルバチョフ時代のソ連を知っている人で、ちょうどいいと思った。しかし『ゴルバチョフ回想録』と並行して読むには向いてなかった。
つぎにアメリカの大統領だったビル・クリントンの回想録はどうだろうとちょっと読んでみたがダメだった。それからこれはどうだろうとトランプ政権の内幕本というふれこみで出版された『炎と怒り』を読んでみた。
これもダメだった。ちゃんとしたジャーナリズムの姿勢で書いている本ではない。そのことはわかっていたが、それでもいやになった。
それでボブ・ウッドワードのクリントン政権の誕生からの何年間の動きを活写している本を読むことにした。『大統領執務室』(訳山岡洋一・仁平和夫)という。『炎と怒り』のように書いている人間にいや気をさすようなことはないだろう。
どうしてこんなに『ゴルバチョフ回想録』を読みながら、ほかの政治の本を読むことにこだわったかというと、『ゴルバチョフ回想録』に巻きこまれるのが怖かったからだ。
長い間、ソビエト共産党こそ地上の悪の根源だと思っていたし、ゴルバチョフはそのソビエト共産党のリーダーだった男だからだ。
上巻を読みはじめてしばらくして、なるほどなとかここは確かにその通りだろうなというところが出てきて、「ゴルバチョフの見方」、「ソ連の見方」というものに巻きこまれていくのが怖かった。
それにしてもゴルバチョフの評価はむずかしい。ソ連の権力者たちの系譜では傑出した人物ということになるのか。とにかく先にソ連の再生と強化をにらんでのこととはいえ、民主化を、自らの権力の弱体化を、自らおこなったというのは確かのようだ。
ゴルバチョフでなければソ連邦の崩壊はなかったかもしれない。ミハイル・セルゲーヴィチ・ゴルバチョフという人間がいなければソビエト連邦の崩壊はなかったかもしれない。
クリントン政権を書いた『大統領執務室』は自らの権力のよりよい維持と展開といったものを目指す政権の内側を生きる人たちを描いているが、<欲得の世界>といった印象がつよい。それにくらべてソビエト連邦という国家の崩壊と存続に直面するゴルバチョフの激しい緊迫感にシンパシーを感じる。
ミハイル・セルゲーヴィチ・ゴルバチョフは知識人であり、論客であり、よくしゃべる人であり、抑圧者であり、ソ連の民主化を計った人であり、レーニンをよく研究した人であり、ソ連共産党の最後の書記長である。
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