大晦日
来年もよろしく。
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来年もよろしく。
崖下にあった。
物置か。
小川幸夫著、腰本文子取材・文『農薬に頼らずつくる 虫といっしょに家庭菜園』。
読みやすく、有益な本だった。
農薬を使わずに野菜を作ろうとするものにとって、テントウムシは益虫なんだが、テントウムシのなかにも害虫が一種類あると教えてくれている。しかし似ている。見分けがむずかしい。
ヨトウムシという幼虫がいて、毛のない毛虫って感じだが、夜盗虫という意味で、夜行性。この虫が玉ねぎの苗を見事に断ち切るって感じで、食べる。最初はわからずに猫が畑を歩くかなんかして、苗が折れたのだろうと思った。あるいは鳥か。しかし夜盗虫だった。
ぼくはそういう幼虫がいるとは知らなくて、最初の畑作りのときなんかは、土を掘り起こしていて、幼虫をみつけると(夜盗虫だったろう)、わざわざ土の中にもどしたりしていた。
アガサ・クリスティの推理小説『ABC殺人事件』(訳・能島武文)。読み応えがあった。これも映画化されているんだろうけど、まだ観ていない。
玉ねぎの苗の畝。
定植したもの。
虫よけを最優先してシルバーマルチをつかった。
子どもが親を殺す事件がよく起こるが、その「親殺し」の前に「子殺し」というものがあるのだ。つまり親による自分の子どもへの「存在を消す」行為が、「存在を殺す」行為が長く続いているのだ。「親殺し」の前に「子殺し」が先行しているのだと、声ひくく糾弾しつつ語る芹沢俊介の一冊。かなり印象にのこる。
2008年の本。
辺見庸の小説『月』を買う。1836円。期待するところ大。
詩的な文体だ。
読むのにスタミナがいるが、詩とちがって小説は、とくに長編小説は<読み落とし>があっても大丈夫だろうから、その分楽だ。
辺見庸は吉本隆明にくらべると自分にちかい世代なんだなと感じる。装幀へのこだわりなんかにそれを感じる。
読むのがつらい小説だ。
「6」の終わり頃から面白くなってきた。
無意識に、現実の人間の原形に、とどこうとする言葉の群れというところか。
「15」まできた。
「15」は面白かった。
辺見庸は現実社会では強者だったのかもしれない。「16」を読んで、そう思う。
辺見庸においては<共産主義>がまだ神格化されている。「17」を読んでそう思う。世代的な刻印を感じる。
ここは面白い。「18」から。
「からだというのは、ほんとうは、ことばをはねつける。ことばをどこか深い奥のところでこばむ。からだとことばが一体のものだとかんがえているひとがいるとしたら、よっぽどおめでたいひとだ。」
火野葦平と田村泰次郎の小説が載っている集英社のぶ厚い本を開く。
日本文学全集という。この厚さで590円だから相当まえの本だ。
火野葦平の小説は引っかかってこない。読んでみようと思わない。
田村泰次郎の「肉体の悪魔」も引っかからない。
「肉体の門」が引っかかった。
今の時代ならなかなか書けないだろうというところがある。自粛してしまうだろう。いまの時代、エロス系は大丈夫だろうが、結果的に人を殺してしまうことに解放感や充足感を感じたとは書きにくい。ここは体験をもとにしているところだから。
昭和22年、1947年の小説だ。続いて「裸女のいる隊列」を読む。
これは田村泰次郎が兵隊として生きた中国での体験を書いているもので、日本の軍隊が中国で実際どういうことをしたのか書いている。凄まじい。
いろいろ言われているが、この小説が事実にちかいだろう。体験したことを書いているんだから。
紹介が遅れましたが、『季刊詩的現代』27号(12月5日発行)ができました。
ぼくは「もう一度 夏が好きになるかもしれない」という詩を書いています。
27号の特集は<茨木のり子>です。
上巻の『回想録』とちがって、あんまり信用できない気がする。上巻の『ゴルバチョフ回想録』は用心して読みながらも、やっぱりここはすぐれた認識だなというところがあったし、ゴルバチョフがソ連の再生、より強くするための再生、そのための改革に進もうとしたことはたしかだろう。
ソ連における権力のあり方についても、それがソ連の再生と強化に必要なことと考えて、たしかに「民主化」の方向に進もうとしていたようにおもう。
ゴルバチョフはソ連の崩壊を望んでいなかった。しかし状況は乱高下し、横振れし、振動し、思惑がはずれてしまったのだ。
上巻が内政を書いたものなら、下巻は外交を書いている。ここでは上巻のように、内政を語ったときのように、ソ連の体制に疑義をいれない。ソ連の体制を完全に肯定していると感じる。そのためだろう、上すべりな記述だし、ゴルバチョフ自身の美化と正当化が多い。本当のことを書いているのだろうかとおもう。
核兵器の軍縮など、これまでのソ連の指導者たちとやったことはちがうのだろうが、外交の顔はこれまでのソビエト指導者の顔と同じような顔をしているとおもう。踏襲しているようにおもう。
とても読むのに難しい本だ。信用できるのかと問いながら読む。本当のことを書いているんだろうなと思うところもある。
『ゴルバチョフ回想録』の下巻を読みながら、ジミー・カーターの自伝を並行して読んでいたが、読み終わってしまった。そこで『チェルノブイリの祈り』を書いたスヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチの『セカンドハンドの時代』を読むことにした。ゴルバチョフ時代のソ連を知っている人で、ちょうどいいと思った。しかし『ゴルバチョフ回想録』と並行して読むには向いてなかった。
つぎにアメリカの大統領だったビル・クリントンの回想録はどうだろうとちょっと読んでみたがダメだった。それからこれはどうだろうとトランプ政権の内幕本というふれこみで出版された『炎と怒り』を読んでみた。
これもダメだった。ちゃんとしたジャーナリズムの姿勢で書いている本ではない。そのことはわかっていたが、それでもいやになった。
それでボブ・ウッドワードのクリントン政権の誕生からの何年間の動きを活写している本を読むことにした。『大統領執務室』(訳山岡洋一・仁平和夫)という。『炎と怒り』のように書いている人間にいや気をさすようなことはないだろう。
どうしてこんなに『ゴルバチョフ回想録』を読みながら、ほかの政治の本を読むことにこだわったかというと、『ゴルバチョフ回想録』に巻きこまれるのが怖かったからだ。
長い間、ソビエト共産党こそ地上の悪の根源だと思っていたし、ゴルバチョフはそのソビエト共産党のリーダーだった男だからだ。
上巻を読みはじめてしばらくして、なるほどなとかここは確かにその通りだろうなというところが出てきて、「ゴルバチョフの見方」、「ソ連の見方」というものに巻きこまれていくのが怖かった。
それにしてもゴルバチョフの評価はむずかしい。ソ連の権力者たちの系譜では傑出した人物ということになるのか。とにかく先にソ連の再生と強化をにらんでのこととはいえ、民主化を、自らの権力の弱体化を、自らおこなったというのは確かのようだ。
ゴルバチョフでなければソ連邦の崩壊はなかったかもしれない。ミハイル・セルゲーヴィチ・ゴルバチョフという人間がいなければソビエト連邦の崩壊はなかったかもしれない。
クリントン政権を書いた『大統領執務室』は自らの権力のよりよい維持と展開といったものを目指す政権の内側を生きる人たちを描いているが、<欲得の世界>といった印象がつよい。それにくらべてソビエト連邦という国家の崩壊と存続に直面するゴルバチョフの激しい緊迫感にシンパシーを感じる。
ミハイル・セルゲーヴィチ・ゴルバチョフは知識人であり、論客であり、よくしゃべる人であり、抑圧者であり、ソ連の民主化を計った人であり、レーニンをよく研究した人であり、ソ連共産党の最後の書記長である。
この時期、牡丹の花が美しい。切らなくてよかった。
高く伸びすぎ、大きくなりすぎたモクレンの枝を切った。
カブの美しいまるみを帯びた光沢に見入る。
カブは手のかからない作物だった。
種をまいて、化成肥料を一度まいたきりだった。
それでこうなる(間引きはときどきやっていたが、それは食べていたし)。
こんなに効率のいい野菜はない。
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