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庭の畑で取れたサツマイモ。新鮮でおいしい。
これは虫の顔。
急に台所でハエが飛ぶようになって、それが2匹になって、どうしたんだろうと思っていたが、外に出たとき、本屋や道路でハエがよく飛んでいるのをみた。ハエの増える時期なのだ。
朝起きたときの室温が15度だった。寒い。
今までで、いちばん近くで撮らせてくれた。
ザクロだろうか。
ソ連共産党書記長だったゴルバチョフの回想録を読んでいて、これはどこまで信じたらいいのだろうという思いがした。ソ連というたしかにこの世の、世界の悪の根源といっていいような国の、その国の指導者だったゴルバチョフの回想録は、白紙の気持ちで読めば、やはりそれなりの説得力をもつものだった。
それで保険をかけるつもりで、吉本隆明の『超「戦争論」』を並行して読むようにした。
ゴルバチョフの回想録はどちらも分厚い上下2巻で、読むのに時間がかかる。吉本隆明の『超「戦争論」』も上下2巻なのだが、はるかに分量が少ないからこれを読み終わってしまい、つぎに選んだのがアメリカの大統領だったジミー・カーターの自伝『信じること働くこと』(訳・瀬戸毅義)だった。
これはジミー・カーターが大統領を辞めて15年くらい経って刊行されたもので、15年経って生臭さも抜けたということもあるだろうが、なんとも信仰厚い本で、よくこういう人が政治家を、しかも大統領をやっていたもんだと思うが、ジミー・カーター独特の政治と宗教の見方というものがあって、政教分離でなければならないが、宗教は政治の至りつけないところへ、世界を、人間を、もう一段上に至り着かせるもので、宗教は政治よりも上位にあるものなのだ。
ドナルド・トランプと比べるとそのまじめさはものすごいもんで、アメリカという国はこういう人が大統領になったりするんだなと感心するが、しかし窮屈といえば窮屈で、やっぱりこれは人気は出なかっただろうなと思った。
くらべてトランプは私利私欲の人だが、陽性で開放的でもあって、人気の出る要素はあるんだなとおもった。
信仰の本なんだが、ぼくの興味をひどくひいたところがあって、それはアメリカの不思議さというか、なぜトランプの支持率がつねに40パーセントくらいあるのか分からないところからきている。
どう見ても、いい加減だし、自らのアメリカンドリームの最終的な目標として、大統領選挙に出ただけで、アメリカがどうなろうが、それは知ったことではないといってもいい、少なくとも最優先事項ではないことが明らかな人物をなぜ40パーセントもの人たちが支持するのだろう、それが分からない。
トランプが大統領候補になり、大統領になって、1年半以上経って、その間ドナルド・トランプについて、彼を支持した人たちについて、いろんな報道を目にし、読んできたわけだが、報道されたことの、だいたいの基本線はアメリカ人の4分の1がキリスト教福音派で、そのひとたちがトランプの固い支持層となっているということらしいのだ。
あとはラストベルトと呼ばれる中西部から北東部の白人労働者たち、フロリダ州にたくさんいる亡命キューバ人たち。そんなひとたちが中心部にいて、あともろもろ合わせて40パーセントくらいがトランプの支持者となっているということのようだ。
福音派ってなに? 急にそんなこといわれてもって感じだが、福音派の指導者層の人たちがいわばドナルド・トランプと取引をしている、契約をしているということなんだろうか、トランプが超保守的な福音派の政治的信条を達成していく、その代わりに超保守的な福音派の指導者層の人たちは自らの影響力をトランプ支持につかう、ということなんだろうか。
それでも建国の理念にもなっているアメリカの民主主義を、権力の在り方を、権力は国民の側にあり、指導する立場に選ばれた人間はただ権力を委託されているだけだという政治の在り方を悪い方に変えてしまっているトランプを、そのことを隠すのでもなく、言動で明らかにしているといってもいいトランプを、なぜ福音派のひとたちは支持するのだ。福音派というのは指導者たちがああせよといったらああしてしまう人たちなのか。
どうなってるんだ。
合わせて40パーセントもの人たちが支持しつづけているということはいったいどういうことなんだ。なんともよく分からないのだ。
しかしジミー・カーターが『信じること働くこと』でキリスト教原理主義者たちに触れていて、そこから少しはアメリカがみえてくる。アメリカの宗教世界のことが。
最初から確固としてこうした超保守的な福音派に属するひとたちが4分の1ほどいたということでもないらしい。キリスト教原理主義者たちは昔から猛烈な運動を続けてきており、そのことが現在のアメリカ社会の姿をかたちづくっているということは一つ言えそうなのだ。
カーターは書いている。
「一九七九年に、このキリスト教保守の一翼がかなり強力となり、私の教会生活の変わらざる『故郷』であった、南部バプテスト連盟(SBC)の主導権を握ることになった。長年にわたり、私は総数千四百万人の信者をかかえるSBCを確固として支援してきた。更には連盟の壮年部をあずかる十五人委員の一人として時間も捧げてきた。この壮年部は連盟に属する壮年全体の事項と諸計画のための方策を決定するのである。ジョージア州知事のときには壮年部部長の結婚式を務めたこともある(私が司会した唯一の結婚式である)。だから、ファンダメンタリストたちがSBCの組織を掌握し、穏健な指導者たちを追放し、神学校の教授選考とカリキュラムの基準を狭い視野で決定したときには愕然としたのである。」
なんかハリー・ポッターのホグワーツ魔法魔術学校が「あの人」の手下によって、乗っ取られていくさまをみているようだが、このキリスト教原理主義者たちが、その流れがいまの福音派を引っ張っている指導者層になっているということなら、ぼくのなかでアメリカの宗教世界のイメージができあがるが、実際のところどうなっているんだろう。
固定的にものすごく保守的なキリスト教徒が4人に1人はということではなく、これは流動的な状態なのだ。
アメリカのキリスト教原理主義者たちはずっとこういう運動をやってきていたのだ。ものすごく戦略的で政治的な勢力らしい。
もうどうにもならないということではなく、宗教に心を向ける人たちの在り方もまた変わりうるということなのだ。
アメリカ社会のわからなさをすこしだけ理解できたような気がしてホッとしたのだ。
しかしキリスト教原理主義者たちの戦略性と運動だけがいまのアメリカの宗教世界を変えたわけではなく、アメリカの政治における宗教の発言力の大きさをつくったわけではなく、まちがいなくアメリカ社会に、そこに住む人びとに宗教へ、信仰へと向かわせるほどの変化が起こったのだといえるだろう。それだけの<圧>がかかったのだ。
それはぼくは金融資本主義じゃないかと思ってる。金融資本主義がアメリカの社会を変えたのだ。
いわばこの金融資本主義の発祥の地であり、もっとも金融資本主義の力が働いているアメリカで、いちばん最初に当のアメリカに住む人たちが悲鳴をあげたのだ、そういえるんじゃないか。
この頃よく夢をみるようになった。暑い頃はまったくといっていいほど夢をみなかったから、これは身体がゆるんでいる夏から、冬にむかって身体が締まっていく、縮んでいくという流れのなかで起こっていることなのだとおもう。
そのからみはよく分からない。
ただ夢そのものは、「身体が自動的に行う記憶の最適化のなかで起こっていること」なのだとおもう。
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