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これはすごかった。ここのところよく映画を観ているが、これが一番の出来だった。
工藤栄一は『十三人の刺客』が有名だが、こっちのほうがよく出来ている。
『十三人の刺客』は半ばくらいからヘタったところが出てくるのだが、『大殺陣』にはそれはない。殿様が警護役に守られて、刺客たちから逃げまわるというのが、『十三人の刺客』と似ていて、残念だとおもったが、それくらいだ。完璧といっていい。
刺客たちも素行不良の刺客や、最後の最後でビビって、逃げ出す刺客もいたりして、多士済々だ。
やっぱりいい映画というか、よくできている映画を観ると、カタルシスがある。
監督 工藤栄一
脚本 池上金男
出演 里見浩太郎 大坂志郎 大友柳太朗 河原崎長一郎 平幹二朗 宗方奈美
1964年 東映
犬とか好きなんだが、背中の毛とか近くでみていると、なんだか気持ち悪いような感じもでてきて、自分で気になっていた。
なぜかといえば、動物が嫌いな人間というのは、どこか「おかしい」というふうに、メディアに、世の中に主導されておもわされているから、あんまり大声では言えないような感情になっているのだ。
いわばおおやけにできないような感情なので、自分で後ろめたく思っていたのだ。
しかし日本人は本当はやっぱり動物とかあんまり好きじゃなかったのだ。動物の毛とかはやっぱり気持ち悪いとおもっていたのだ。
金田一春彦の1月から12月までのすべての日に、その日に関係あることをつづっている『ことばの歳時記』の十月二十七日の、「シカ」の題をもつところに、こう書かれている。
「日本の和歌には、元来、ウメ・サクラ・ヤナギ・モミジ・ハギ・キクなど、植物をよんだものが多いが、動物を題材としたものは少ない。」
「日本人が獣を嫌ったのは、なまじ人間にもっとも近く、あの毛むくじゃらな感触をきらったもののようで、シカも、愛されたのは鳴き声だけであった。」
散歩の途中で。
ゴルバチョフの回想録を、上巻だが、読みつづけている。
ぼくは困惑している。
ゴルバチョフ、つまりソ連共産党書記長だった男の、すぐれた認識をしめす記述がいくつかあるからだ。書いたものではそうだ。
ソ連共産党書記長といえば、地上の悪の根源のような存在のソビエト共産党の、そのリーダーだ。
しかし読んでいると、ゴルバチョフ時代のソ連のほうが、エリツィンのロシアよりも、プーチンのロシアよりもよい政治をやろうとしていたのだとおもえる。
少なくともプーチンのロシアよりはよい政治をやろうとしていたのだとおもえる。
いったいどうなってるんだ、と思いつつ、読んでいる。
1989年12月、ぼくは私的なトラブルの渦のなかに落ちて、世界情勢どころではなくなるのだが、それまではソビエトが、ソ連が、崩壊することを強く望んでいたのはまちがいない。もうエリツィンが表舞台に出て、活躍していたのだとしたら、情勢がエリツィンの方に傾くことを、これも強く望んでいただろう。
そのぼくの思いは、間違っていたのかも知れないのだ・・・。
ぼくは深く困惑する。
しっかり踏んでいるが、歩みは速く、足音はスッキリしているという詩のコトバだ。
全27編。
「五月」と「驟雨となって」がいい。
ただいま木材の勉強中。
メークィーンだ。
美しい小説だった。品がよかった。何十年ぶりに読んだんだろう。
吉本隆明の雑誌『試行』に載っていて,それでこの本を買ったのだ。
昭和五十年の発行だから、四十数年ぶりくらいか、買ったのは1980年代に入ってからか。どっちにしても長い時間が経っている。
捨てずに持っていてよかった。おそらく当時よりも、もっとよくこの小説を読めている。自伝小説だろう。昔のひとの昔の田舎を書いた自伝小説だけれども、非常に品がいい。言葉づかいに昔の人の品の良さがでている。
ヘーゲルの『哲学史講義』を「Ⅰ」から「Ⅳ」まで、つまり全部読んだあと、もう一度「Ⅰ」から読もうと思ったとき、ふとこの本を読みたくなったのだ。
本棚の一番下のところにあって、目にはいることがあったということもあるが、ふとこの小説を読みたいと思ったのだ。
ネットでふと「劇団唐組 公式情報」という「お気に入り」にいれてあるものをクリックすると、
7月6日の記事として、
「劇団唐組を応援いただいている皆様へ」という文章が載っていて、
辻孝彦が7月5日の朝に亡くなったということが書かれていた。
全然知らなかった。4月に大阪に唐組の芝居を観に行ったあとは、「劇団唐組 公式情報」というのは見てなかった。
さみしいなあ。ファンだった。おかしな哀しげな役者だった。
おかしげで哀しげで陽性の足腰をもっていた。
唐組のなかでいちばん親近感をもっている役者だった。
闘病中だったのか。
冥福を祈りたい。
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