ヘーゲル「哲学史講義Ⅳ」についてのメモ その9
「わたしの哲学史を聴いたみなさんが、わたしたちのうちに自然に息づいている時代精神をとらえかえし、自然のままに閉ざされ、生気を失っている精神を白日の下に引きだし、ーー各自がそれぞれの場でーー意識的に精神に光をあてようと努力されることを期待します。」
ぼくは「二度目のヘーゲル『哲学史講義』についてのメモ」を書くつもりだ。もう一度ヘーゲルの『哲学史講義』をⅠから読むのだ。
しかし、まずは一服して、ひと呼吸をしてからとしよう。
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「わたしの哲学史を聴いたみなさんが、わたしたちのうちに自然に息づいている時代精神をとらえかえし、自然のままに閉ざされ、生気を失っている精神を白日の下に引きだし、ーー各自がそれぞれの場でーー意識的に精神に光をあてようと努力されることを期待します。」
ぼくは「二度目のヘーゲル『哲学史講義』についてのメモ」を書くつもりだ。もう一度ヘーゲルの『哲学史講義』をⅠから読むのだ。
しかし、まずは一服して、ひと呼吸をしてからとしよう。
「おのれを認識し、おのれを発見するという精神のこの労働、この活動こそが、精神そのものであり、精神の生命です。」
「精神は自己を自然や国家として生みだします。」
「わたしが示したかったのは、後の哲学はかならず前の哲学を前提にして生まれる、という哲学成立の必然性です。」
「なにか特別のことを考えているといったうぬぼれにとらわれてもならない。というのも、内面にある共同体の精神をとらえることが現代人としての個人の立場であり、」
もうすっかり、この世の中というか、この社会がいやになってしまったが、(バラバラだ)。それでもぼくのなかにたしかにあるだろう、この社会のもの、この時代のもの、その共同性の声を聴くべきだという教えは、新鮮だし、うっとうしくもあるがうれしい呼びかけだ。
いよいよ「むすび」だ。『哲学史講義Ⅳ』の「むすび」だ。ⅠからⅣまでつづいた『哲学史講義』そのものの「むすび」だ。
「精神が内面に深くわけいればわけいるほど、対立は大きくなる。精神の深さは、対立や要求の大きさをもとに計ることができる。精神が深まれば深まるほど、外にむかって自分を発見しようとする要求も深まり、外部の精神の広大な領域があらわれます。」
ぼくもさすがに哲学の本を読むのに慣れてきたといえる。この『哲学史講義Ⅳ』を読むのは早かった。ほかにプラトンの全集も第2巻の最後の方までは読んでいたし。
ヘーゲルは「東洋」というものを軽くみていて、「下位の存在」とおもっているのかと思えるところもあって、東洋人であるぼくは「ああ、そうですか」と流すわけにはいかないし、ぼくが軸を置こうとしている「感覚」や「直観」というものも、軽くみられている。
ヘーゲルのからだがもつもの、ヘーゲルの持つもの、知性や理性の方向へすすむのだという強烈な足取りに、それ以外はないという姿勢に、<異常>なものも、感じなくはない。
しかしそういうでこぼこはあるけれど、ヘーゲルから受けとるものは大きいのだ。手ごたえがある。ぼくには必要なものがある。
「意志の本質は自己決定にあり、自分の自由のみを目的とします。」
「カントは俗っぽいいい草を借りて、悪は克服されるべきだが、克服されるという保証はない、といいます。」
「理性が現実的なものだと信じることは人間にはむずかしいが、しかし、理性以外に現実的なものはなく、理性は絶対の力です。人間には虚栄心というものがあって、脳裡に勝手な理想を思いえがいて他の一切を非難し、理想をもつ自分たちこそ立派なんだとうぬぼれますが、理想は現実には存在しない。カントの最終的なよりどころは、こうした理想の非現実性にあって、それは高度な立場ではあるが、真理の一歩手前に立ちどまっている。絶対の善は客観性のない要請にとどまり、あくまで『あるべきもの』にとどまります。」
この<理想の非現実性>というのは面白いな。<カントの最終的なよりどころは、こうした理想の非現実性にあって、>というのは面白いところだなあ。
カントがでてきた。カントといえば埴谷雄高を思いだすな。
「カント哲学の立脚点は、思考がその論理展開を通じて、自己を絶対的かつ具体的なもの、自由なもの、究極のものととらえる、というところにあります。思考は、自己のうちで一切がたがいに浸透しあうと考えます。」
「思考は自己の内部でものごとをあきらかにし、具体的にしていきます。」
「カント哲学の真相は、思考が具体的な内容をもち、自分みずからをあきらかにするものだととらえられる点にあって、」
「そして、道徳的存在たる人間は、自分の内部に道徳法則をもっていて、その原理は意志の自由と自律です。好悪の情にもとづく決定原理は、意志にとって異質な原理であり、そうした原理を目的とする意志は、他律の状態にあるとカントはいう。決定原理がどこか他のところからとられているからです。だが、意志は自由であり、自主的に決定をくだすものです。」
ここはむずかしいところだな。理屈としてはそうだろう。
しかし、今という時代は好悪の時代だからな。人たちは好悪のエネルギーで動いていく力だけはある。あとは「損得勘定」。それ以外はない。それ以外はどう言われようと動かなくなった犬のようなもんなんだ。
「思考というものは、単一の、一般的な力として、自己同一の世界を保とうとするもので、だから、特定のものを破棄して自己同一をなりたたせるための、否定的な運動を本質とします。自己の自立性を確立しようとするこの運動は、思考そのものの本質をなす要素ですが、」
いちばん重んじるべきことは「解く」ことではなく、そこを「生きる」ことだ。究極の価値は、目的は、「解く」ことではない。
ヘーゲルがぼやいている。
「現実の客観的世界が理性的になっただけに、外部からくる強制力は際限なく大きくなり、個人の人格や生活はどうでもよくなる。哲学者は、外的な世間づき合いを避け、世俗的な仕事や労苦を投げだして、哲学者として生きるべきだという人がいるが、さまざまな欲求がからみあい、とくに教養の質が複雑化している時代にあって、個人の力量など高が知れていて、なにをするにも他人と協力するほかありません。だからこそ、外的事情にかかわりつつ生きていくことが必要で、しかも、その外的事情はわたしの思惑とは無関係に進行していく。そのなかに自己や自己の性格を投入するわけにもいかないし、そこで自分独自の生きかたを示すわけにもいかず、しかも、社会生活のうちにみずから一定の位置をつくりあげねばなりません。」
当然のことだろうけど、ソクラテスが生きた古代とヘーゲルの時代では大きく社会のかたちそのものが変わっているのだ。今の、現代の社会とはもっと大きく変わっているわけで、吉本隆明が最後は今の時代の人間たちに絶望し切って、古代の人間を語り出したという印象をもったが、そういうことなんだろう。
スピノザの哲学というのはヨーロッパのもの、キリスト教徒のものだと強く思わされるな。哲学の展開のなかに神の存在が必要不可欠なものとしてあって、入りこめるもんじゃない。
この『4』、つまり『Ⅳ』でヘーゲルの『哲学史講義』もついに終わりを迎える。
これからニュートンやカントが出てくる。かれらはどんな哲学を展開しているんだろう。
ヘーゲルも時代によって、社会の移り変わりによって人間の在り方は変わるという考えだ。
「すぐ目につくのが、今日の生活状況も古代の哲学者たちのそれとはいまやまったくちがっていることです。古代の哲学者たちはそれぞれが独立の個人だった。哲学者は自分の教えに従って生き、世間を軽蔑し、世間に交わることなく生きることが要求された。古代人はそれを実行しました。古代では個々人が哲学者として一つの階層をなしていた。個人が哲学者としても生きること、すなわち、内面的な目的や精神的な生活が、外面的な生活状況を決定することが可能でもあり、また実際にそれがおこなわれてもいました。個人はそれほど輪郭のはっきりした存在だった。」
こうも書いている。
「近代になると事情は一変します。ここにはもはや哲学者個人は存在せず、哲学者が一つの階層を形成することもない。哲学者たちは全体としてなんらかの活動を通じて世間と交わり、他の人びとといっしょになって国家内での一階層をなす。他に依存し、他と関係する存在です。その生活は市民生活や国家のなかにふくまれ、私人として暮らすことは可能でも、私人としてのありかたが他との関係を断ち切ったものではない。外的な生活状況のつくられかたがちがうからそうなるので、近代にあっては、外的世界は安定した秩序をなし、階層や生活様式がきちんとできあがっています。」
ヘーゲルは現実をちゃんとみているとおもう。
つげ忠男の『成り行き』を読みかえしている。
前にも書いたことがあると思うが、つげ忠男は今の時代をよくわかっている。そして人として、基本的に変わっていないのがいい。
ときどき聴きたくなる。
雨が何日も降りつづくというのは珍しいことじゃないが、切れ目なく朝も、昼も、夜もと降りつづくのはめずらしい。
市から避難準備や避難指示の広報が出て、さすがに心配になって、家のまわりの排水溝をぐるりと見てまわった。水の流れは速かったが、水位は上がってなくて、大丈夫だと判断した。
あとは近くの川が氾濫することが心配だったが、それはまあないだろうと考えていた。
ゴミ出しに行ったとき、門の所、家の出口というか、そこにトーチカがいた。一般的にはザリガニとかアメリカザリガニとかいうんだろう。
排水溝にでもいたんだろうか、ずっと雨がふりつづいていて、それで出てきたのだ。
ひさしぶりにみた。戦闘意欲充分だった。
原一男監督はスキャンダリストかとおもった。現実を撮るということから離れて、向こう側にまわって、現実をいじろうとしている。
それってありかい。ということで、原一男監督はもうぼくにとって特別の存在ではなくなった。
なんとなく原一男の『ゆきゆきて、神軍』は、ソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』みたいなもんかなとおもった。
アスベスト(石綿)には悩まされた。勤務先の建物にアスベストをつかった所があったのだ。そこに行かないわけにはいかなかった。心理的にも辛かった。『ニッポン国vs泉南石綿村』を観てよかったとおもうのは、ぼくの吸った量は、この人たちに比べると、はっきり微量だといえるなということだった。(申し訳ない)。
観客は少なかった。石綿による被害の現実を知る、数字だけじゃなく、実際に被害にあった人たちの現実を知る(それを被害というんだ)、ということでは貴重なドキュメンタリー映画だ。
地下通路を歩いているとツバメが飛んでいた。
警報器らしいものの上にとまっている。
面白い。
さっぱりしていて、味わいがある。
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