ヘーゲル「哲学史講義Ⅱ」についてのメモ その13
ヘーゲルのプラトンの哲学についての講義を読みながら思ったのは、現在の退廃というか断片化し痴呆化した社会は個人の欲求、恣意的な自由を重んじている民主主義社会というものの必然的な結末なんだろうか、ということだ。
だとしても。いまの社会より前の社会、戦前の社会、大日本帝国の時代の社会、江戸時代の社会、それらの抑圧の強い、権力を持つ側であるお上と我々の側に越えがたい境界線があった時代よりはずっとマシだろうと思うのだ。
戦前の、戦後より前の社会の人間には選挙権はなかった。じぶんたちを治める人間はじぶんたちが選ぶのだという考えはもっていなかった。統治者をじぶんたちが選ぶなんてことはあり得ないことだった。そういう社会があたりまえのように長くつづいていたのだ。
痴呆化し、バラバラに砕かれているような今の社会ではあるが、戦前以前の社会よりは個人の、一人ひとりの権利は認められている。そして、一応<自由>はあるのだ。以前の社会よりは明らかに<楽>なのだ。個人の行動にたいする社会の許容力は大きくなっている。そのことが大切だと思うのだ。
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