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『4ウェイ ストリート』というのはぼくが1970年代の初めくらいに買ったとおもう「CSN&Y」の、つまりクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングのLPレコードだけれど、その中にはいっていた「サザンマン」という歌は、四人の(だと思う)ギターの掛け合いが素晴らしくて、当時どきどきしながら聴いていた曲だ。1970年のライブ録音だった。
そのあと世の中は変わり、音楽はCDの時代になって、レコードは消えていき、ぼくの持っていたレコードプレイヤーも壊れ、この『4ウェイ ストリート』は聴くことができなくなった。けれども、この「サザンマン」のギターの掛け合いの音はずっとおぼえていて、また聴いてみたいと心のどこかで思っていた。
そしてやっと聴けた。
ユーチューブで「サザンマン」を探して聴くと、ニール・ヤングの「サザンマン」ばっかりで、CSN&Yの「サザンマン」がないのだ。あの「サザンマン」がない。
あの四人の、クロスビー、スティルス、ナッシュ、ヤングのギターの掛け合い、語り掛け合いの「サザンマン」がないのだ。四人が音で問い、答えあっているような「サザンマン」が。これはクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングから独立し、ソロになったニール・ヤングの「サザンマン」なのだ。
これもわるくないけれど、あれとはちがうなあ。おれの勘違いなんだろうか。これが「サザンマン」なんだろうかとさえ思ったりしていたが、やっと偶然あの「サザンマン」をみつけた。
あのクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングのギターのどきどきする掛け合いがある「サザンマン」なのだ。
1990年代に四人が集まってやった「サザンマン」もあるみたいだけれど、それは聴く気にならない。
1970年の「サザンマン」がいいのだ。
阿佐ヶ谷で。
金井雄二さんの個人詩誌『独合点』(ひとりがてん)129号に「街」という詩を書きました。
前にもいちど『独合点』には書かせてもらったことがあるけれど、もう129号になっている。よく続いています。
『独合点』129号の内容は、
布村浩一 詩「街」
金井雄二 詩「驟雨」
金井雄二 評論「詩集書評」
となっています。
金井さんは「詩集書評」のなかでいくつかの詩集を取り上げているけれど、その中に秋島芳惠さんの『無垢な時間』があります。
秋島芳惠さんは木村恭子さんのやはり個人詩誌の『くり屋』で続けて詩を発表し始めてから、ぼくは知ることになった詩人で、91才の方です。
91才で第一詩集です。『無垢な時間』の中には30代前半の詩から収められているから長いキャリアの方です。ぼくは知らなかった。
長く詩を書き続けてきた秋島さんがなぜ91才になるまで詩集を出さなかったのか、それ自体が一つの<物語>です。
ぼくもいずれこのブログで秋島芳惠さんの『無垢な時間』について書いてみたいと思っています。
今村昌平監督の『赤い殺意』。
春川ますみが泥状の女神のようだった。
『哲学史講義Ⅱ』を読みすすめていて、ヘーゲルの知性への執着というか、知性の方向に向かうことへの執着に、その視線の強さにドギつさを感じてしまった。はじめてのことだった。これはヨーロッパのものだなと思った。とまどうがこう感じてしまったのは事実だ。
ヘーゲルのよい文章がある。
「存在の本質が対立物の統一にある以上、その過程は必要不可欠です。対立物の統一とは、対立物の否定を本質とし、他なる存在を破棄し、対立を破棄して自己へと還っていくものだからです。」
前後の文章を加えると、
「実際、一般性が否定されてどう理念が実現されるかは、直接に表現されてはいませんが、存在の本質が対立物の統一にある以上、その過程は必要不可欠です。対立物の統一とは、対立物の否定を本質とし、他なる存在を破棄し、対立を破棄して自己へと還っていくものだからです。アリストテレスのいう現実性とは、まさしくこの否定の活動であり、実在を生みだす活動です。それは、自立した自己自身を分裂させ、統一を破棄し、分裂を引きおこす活動であり、そのとき、理念はもはや独立の存在ではなく、他者にむきあう存在であり、統一を否定する力となっている。が、それだけではない。対立物は破棄されるのですが、この対立物の一方はそれ自体が統一です。プラトンでは理念という積極的原理がたんに抽象的な自己同一体として力をふるいますが、」
とある。
ヘーゲルがアリストテレスの語った言葉を紹介している。
「人は無知をのがれるために哲学しはじめるのだから、なんらかの効用のためではなく、認識のために知を求めているのはあきらかである。それは哲学成立の外的事情からも証明される。なぜなら、すべての必要物やすべての安楽を確保してはじめて、人はそのような(哲学的)認識を求めはじめたのだから。だからわれわれも他の効用のために哲学を求めはしない。ちょうど、ほかの人のためではなく自分みずからのために存在する人を自由人というように、哲学もまた、それだけが自分自身のために存在する(認識のための認識である)がゆえに、さまざまな学問のなかで唯一自由な学問である。」
ヘーゲルのアリストテレスにたいする高い評価がある。プラトン、ソクラテスに負けないほどの高い評価。
アリストテレスはプラトンの弟子で、あのアレクサンダー大王の家庭教師もやっていたという(これは何かで知っていた)。
ヘーゲルのプラトンの哲学についての講義を読みながら思ったのは、現在の退廃というか断片化し痴呆化した社会は個人の欲求、恣意的な自由を重んじている民主主義社会というものの必然的な結末なんだろうか、ということだ。
だとしても。いまの社会より前の社会、戦前の社会、大日本帝国の時代の社会、江戸時代の社会、それらの抑圧の強い、権力を持つ側であるお上と我々の側に越えがたい境界線があった時代よりはずっとマシだろうと思うのだ。
戦前の、戦後より前の社会の人間には選挙権はなかった。じぶんたちを治める人間はじぶんたちが選ぶのだという考えはもっていなかった。統治者をじぶんたちが選ぶなんてことはあり得ないことだった。そういう社会があたりまえのように長くつづいていたのだ。
痴呆化し、バラバラに砕かれているような今の社会ではあるが、戦前以前の社会よりは個人の、一人ひとりの権利は認められている。そして、一応<自由>はあるのだ。以前の社会よりは明らかに<楽>なのだ。個人の行動にたいする社会の許容力は大きくなっている。そのことが大切だと思うのだ。
ヘーゲル『哲学史講義Ⅱ』はおれにとって思考のトレーニングなのだ。妙な方向を向いてないか、身と心がねじれてないか、来たところをまた歩いてないか。そんなことを確かめる。
プラトンの哲学についてのヘーゲルの講義にはかなり傍線を引いたけれども、ここにも引いた。
「ここに自由とは、自分のうちに還っていくことにほかならず、還っていく自分のないものは生命なきものです。」
「ディオゲネス」のところではヘーゲルは面白いことを言う。
「服装のよしあしなど理性が決める事柄ではなく、欲望に従えばいいのです。」
ヘーゲルのイメージとはちがっていて、欲望というものに対して禁欲的ではないのだ。ある領域では欲望というものをバーンと認めていけばいいという考えのようだ。ここは面白いし、なるほどなと思った。
こんなふうにも言っている。
「しかし欲望にできるだけしばられないようにするという生きかたは、抽象的な自由にすぎない。具体的な自由とは、欲望に無関心な生きかたをしつつも欲望を避けず、欲望を満たしながらも自由を失わず、」
とこんなふうに言う。感心する。ぼくはこんなふうにできたかな。
「キニク派は学問的な重要性はもたず、普遍的なものの意識にかならず生じてくる一側面をいいあらわすものにすぎません。意識は個人として、事物や享楽にとらわれた状態を脱しなければならない、という側面です。(冨や満足に執着する人は、実際その生活意識において物や個別的な価値を本質と見なしています。)ただ、キニク派はこの側面をいうのに、いわゆる贅沢を現実に断念することに自由があるのを強調しました。キニク派は、一般生活上の享楽や利害とかかわりをもたない抽象的・静止的な自立しか認めなかった。しかし、本当の自由は享楽からの逃避や、他の人間、他の生活目的とのかかわりからの逃避にあるのではなく、意識があらゆる現実に巻きこまれつつ、それを超え、それから解き放たれていることにあります。」
ヘーゲルが「キニク学派」について説明しているここのところは、うなづきながら読んだのだ。
おぞましい人間の悪を見た。いやなものを見てしまった。傷になってしまった。だが今はたんに忘れさられるべき体験というよりも、もっと反芻するべき体験のような気がしている。せっかくの体験だといいたい。
まえは小林秀雄がおれを助けてくれた。そんなときがあった。小林秀雄に救われたとはっきり意識したことがあった。そういう体験があった。
今度はヘーゲルがおれを助けてくれそうな気がする。
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