ヘーゲル「哲学史講義Ⅱ」についてのメモ その6
ソクラテスがどういう人物だったのかというのは分かった。ソクラテスの哲学というものが、ソクラテスという人間と分かちがたく結びついているものであること。ソクラテスの生きた社会、現実をよく生きることから生まれたものであること。その哲学のだいたいの輪郭も分かった。
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ソクラテスがどういう人物だったのかというのは分かった。ソクラテスの哲学というものが、ソクラテスという人間と分かちがたく結びついているものであること。ソクラテスの生きた社会、現実をよく生きることから生まれたものであること。その哲学のだいたいの輪郭も分かった。
毎日、少しずつ読んでいる。まとめて読むと頭にはいっていかない。少しずつ1、2ページずつくらい読んでいくと頭に、心に、気持ちに入っていく。
とても新鮮だ。たしかなもの、基本のものにであっているという感じがする。
考え方、思考の基本を学んでいるという思いになる。
ヘーゲルという泉と出会った感じがする。
ヘーゲルに伝わっているドイツの歴史のなかのものとぼくがもつ、ぼくのなかにある、ぼくが基盤とするだろう日本のものとはすでにちがっているものだと思うが、大きな教科書にであったという気がする。
自分から始まるのだ。そこが軸になる。そこが中心になり、そこから精神の働きが、運動が始まる。
主観的であっていいのだ。そうあるほかない。
ようやく哲学というものの源流にたどり着いたような気がする。
もちろんソクラテスとかアリストテレスとかプラトンとかいるんだろうが、ぼくにとっての哲学とはヘーゲルだった。
ぼくの身体のなかに断片的に埋め込まれている哲学の破片の源流はヘーゲルだった。
ヘーゲルという大きな精神に出会えてうれしいというのが、ぼくに徐々に芽生えてきたおもいだった。『哲学史講義Ⅰ』を読みながらそう思った。
『哲学史講義Ⅱ』はどうなるだろう。
立川で。
バッタだと思う。
サンタナの「Song Of The Wind」。カルロス・サンタナだとおもうんだが、ギターがすごい。あとはときどきだけど宇多田ヒカルの「真夏の通り雨」を聴いている。なんか悲しい歌だな。
『イヴの総て(すべて)』。
「大スター」役のベティ・デイヴィスが観ていてげんなりするほどイヤな女を演じ切る。最初テレビで観たとき印象の強かったイヴ役のアン・バクスターよりもベティ・デイヴィスだった。
最初はテレビで、NHKの教育テレビで観たと思うのだけど、そのときは完璧な映画だと思った。
こんど映画館で観て、そのときの驚きといっていいほどの感動はなかったが、完成度の高い映画だというのはまちがいない。
かなり若い頃の、20代前半くらいか、そのころのマリリン・モンローが少し出ているが、身体の線のきれいさが出ている女優たちの中では抜群だと思った。
1950年のアメリカ映画。ジョセフ・L・マンキーウィッツ監督。アカデミー作品賞を取っている。ぼくはベティ・デイヴィスがアカデミー主演女優賞を取ったと思いこんでいて、なぜイヴ役のアン・バクスターではないのだとずっと不満に思っていたけれど、ベティ・デイヴィスはアカデミー主演女優賞を取っていなかった。アン・バクスターも取っていない。
ウィキペディアの記事によるとベティ・デイヴィスとアン・バクスターのふたりに票がいってしまい、結局票が割れて、どちらもアカデミー主演女優賞をとれなかったようだ。しかしベティ・デイヴィスの演技はすごかったな。なんというババアだと腹立ったな。
1951年度のアカデミー作品賞のほか監督賞、脚本賞(1951年度の脚本賞は『サンセット大通り』で、『イヴの総て』は脚色賞となっているサイトもあって、このへんはよく分からない)、助演男優賞、衣裳デザイン賞(白黒)、録音賞を取っている。
テーマはあえて言うと<永続する野心>か。まあくりかえしてしまうんだろうね。
アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真をみていると落ち着く。
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