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2017年4月

2017年4月28日 (金)

オーウェル「葉蘭を窓辺に飾れ」

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 本屋に入っていつものようになんとなく並んでいる本をみて歩いていたら、オーウェルのまだ読んでない小説をみつけた。

 それもふたつの小説がならんでいた。

 どっちを読もうかと迷ったが、文体で生気のありそうなほうを選んだ。

 ジョージ・オーウェル『葉蘭を窓辺に飾れ』大石健太郎・田口昌志訳。

 「葉蘭」というのは「はらん」と読む。こういう花があるんだろうか。

 

 三十才ころのぼくの孤独と焦りを思いだす。阿佐ヶ谷に住んでいた二十代の頃のジリジリとした焦燥はうすれていたが、やはりまだ焦りはあった。そのころの孤独を思いだす。

 

 オーウェルが三十三才ころに書いた小説だから等身大の小説といえる。主人公のゴードンは三十前の男だ。そういう設定だ。

 百七十センチくらいのイギリス人としては背の低い男ということになっているが、オーウェル自身は長身だ。ここは変えてある。

 詩集を出したことのある男で、文筆でなんとか食べていこうとしている。しかしまるで展望が開けない。

 ゴードン・コムストックというみじめな男の生活を細かく活写している。この活写は面白い。金がないということがとても大きなことになっている。ジョージ・オーウェルは金というものを意識しすぎているのか。そうじゃなくてじっさい当時のイギリス社会の貧困というものがひどい、足にからみつくようなものだったのか。

 

 葉蘭というのはどんな花なんだろうと思ってしらべてみたが、葉っぱがメインの植物のようだ。大きな緑の葉だ。笹の葉をおおきく長くしたような。こういう葉は散歩していて見たことがあると思う。こういう大きな葉をみた。

 

 オーウェルが自分自身をモデルにしているゴードンの貧乏生活の愚痴が次から次へと出てくるが、惨めたらしく、いやみたらしい。これはオーウェルの声だろうか、と思ってしまうが、小説のための誇張だろう。

 これが欠けているためすべてが上手くいかないんだということをいつも言いつのっている友人が若いとき周りにいた。ぼくもずっと後になって、本当にひどい目に合ったときはそういう風に思った。そういうふうに考えていたことがある。これも、これも、このことのために、と。

 

 しかしそういうことを思いだしても、主人公のゴードンにうまく感情移入できない。これほど金のことにこだわっている人間をみると、これほどすべてを金の有りなしに結びつけてしまう人間をみると、いらだちをおぼえてしまう。オーウェルの分身であるゴードン・コムストックの人物造型はうまくいっていない。

 

 ゴードンの金の使い方をみていると、ちょっと石川啄木のことを思いだしたな。関川夏央の書いた評論か伝記だったとおもうが、啄木のすさまじい借金生活を書いていた。それに比べればゴードンの金の使い方はほとんど問題にならないくらいのものではあるが、ちょっと思いだした。

 それにしても主人公のすさまじい金へのこだわり方だな。ジョージ・オーウェルにもこういうところがあったんだろうか。イギリスは階級社会だというから、そういうことの影響もあるんだろうか。

 

 思いがけない金が、それもかなりの額の金が手に入ったことから、ゴードンが激しい渦に巻きこまれるように落ちていく、その感覚がよく書けているといえば、いえるんだろうが、共感できないな。感情移入できない。

 ジョージ・オーウェル自身に金への尋常でないこだわりというのがあったんだな。こういう<傷>のようなものはもっていない人だと思っていた。

 

 オーウェルの作り上げた主人公ゴードンにうまく感情移入できず、渦の中を落ちていく主人公に深い同情の気持ちをもてず、読んでいるぼくはいらだった。

 が、しかしようやく読者としての感情の機首が上がる。地面すれすれにぶつかりそうになって、鼻をこするほどだったが、読者としての感情がまた上を向いた。

 ゴードン・コムストックの仕事の選び方が分かったからだ。

 ゴードン・コムストックがみえた。

 希望のない仕事、上昇志向の入り込みようのない仕事、どうでもいい仕事、野心や昇格といったところから遠くにある仕事、そういうものをはらまない仕事。そういう仕事を選ぼうとするゴードンはわかるのだ。この強いこだわりは分かるのだ。

 社会構造への認識、世の中の仕組みへの眼差しは分かるのだ。

 

 このつまらない世を生きるための仮の姿というのならよいとしても、ひっくり返ってしまって、この世はすばらしい、この世はうつくしいというのはダメだろう。演じている自分のこの苦しいねじれた身体がみえなくなるのはダメだろう。

 しかし幼児性の抜けない主人公だなとまた思わされる。ジョージ・オーウェルはそういう主人公を書いているのだ。でもこの話の終わり方はいいとおもう。収まりがつく。

 これ以外なかったような話のつけかただとも思う。

 ゴードン・コムストックはついに葉蘭を窓辺に飾る。

 社会の空いた穴のような底に向かって泳いでいたゴードンは、別れかかっていた女が妊娠したことを知って水面に向かう。ひょいと顔を水面に出す。

 そして結婚生活のために借りた部屋に、葉蘭を飾る。

 じぶんも皆とおなじように汚れたのだ、皆とおなじだ!とそのしるしを飾る。飾らなければならないのだ。

 

 

2017年4月27日 (木)

クリフォード・ブラウンを聴きながら整体をする

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2017年4月26日 (水)

赤い花

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2017年4月25日 (火)

映画館で

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 『アメリ』。

 よい映画でした。

2017年4月24日 (月)

建物

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2017年4月23日 (日)

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2017年4月22日 (土)

赤い葉

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2017年4月21日 (金)

コケ

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2017年4月20日 (木)

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2017年4月19日 (水)

国立科学博物館から

 
 大英自然史博物館展、地球館の展示とまわって外にでた。
 
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2017年4月18日 (火)

地球館で

 
 だいたいの場合、特別展よりも常設展の方がよいということが多いので、地球館にまわってみたけれど、やっぱり充実していた。
 
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2017年4月17日 (月)

大英自然史博物館展で  4

 
 これは人類のご先祖だったとおもう。
 このあと国立科学博物館の常設展の地球館にまわったので、もしかしたら地球館で撮ったのかとおもうけれど、大英自然史博物館展のものだろう。
 
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2017年4月16日 (日)

大英自然史博物館展で  3

 
 ライオンの像。
 
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2017年4月15日 (土)

大英自然史博物館展で  2

 
 大きな魚のはく製。シーラカンスかと思ったが、そうではなかった。
 
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2017年4月14日 (金)

大英自然史博物館展で  1

 
 上野の国立科学博物館でやっている「大英自然史博物館展」に行ってきた。
 
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2017年4月13日 (木)

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2017年4月12日 (水)

白い花

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2017年4月11日 (火)

赤い葉

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2017年4月10日 (月)

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2017年4月 9日 (日)

図書館で読む「スクリーン」

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2017年4月 8日 (土)

白い花

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2017年4月 7日 (金)

葉とつぶやき

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 加川良が死んだようだ。新聞の死亡欄にでていた。

 「教訓Ⅰ」とか「戦争しましょう」とかときどき聴いていた。

 合掌。

2017年4月 6日 (木)

つぶやき

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 共謀罪やるようだ。

 いちばん危険な法律だとおもう。

 萎縮と分断がもっと進み、「密告」という問題も起こってくるだろう。

2017年4月 5日 (水)

葉の世界

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2017年4月 4日 (火)

コケ

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2017年4月 3日 (月)

映画館で読む藤原新也の「東京漂流」

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2017年4月 1日 (土)

「浮雲」を観に行く

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 1955年に作られた日本映画。

 主演しているのは森雅之と高峰秀子。

 監督は成瀬巳喜男(なるせ みきお)。

 坂道をズルっズルっとずり落ちていくような暗さがすごい。展望がまったくない。希望もない。凄いな、見事だなと思うほどだ。

 この暗さは<戦後>でなければ作れない暗さだ。原作(林芙美子)があるとはいえ、すごいと思う。

 反戦映画でも好戦映画でもないが、この映画も戦争映画のひとつだといえる。

 南方(インドシナ)の戦地で出会った男と女が、ひかれあい関係を持つことになるのだが、戦争は終わり、内地へもどることになる。

 日本へ帰ってきてからの南方の戦地で愛しあった男と女の物語。

 帰ってきた男(森雅之)が帰ってきた女(高峰秀子)に再会し「これが敗戦なんだ。」と言うところがあるが、納得した。映画を観ていて納得した。

 帰還兵の富岡(森雅之)が内地の、日本の社会のありさまを見て言う「敗戦」というコトバに納得した。

 ぼくは吉本隆明が太平洋戦争の終わりを「終戦」と呼ばず、「敗戦」と呼ぶことに、そのことにはげしく執着することに、正直ピンとこない思いがしていたが、『浮雲』のこの富岡の「敗戦」はよく分かった。

 太宰治ばりのどうしょうもないダメ男の富岡(森雅之)とゆき子(高峰秀子)の戦争を背景にしたよじれた愛の物語。

 

 成瀬巳喜男監督というのはメロドラマの名手なのだそうだ。

 いちばん最初に音楽がながれたときは、いい音楽だなとおもった。しかしだんだん音楽は映像に合わなくなってくる。音楽がメロドラマ的になってくるのだ。

 くりひろげられている映像、物語はリアルだ。白黒の映像の坂道をずり落ちていくような男と女の絶望の物語なのだ。

 そこにメロドラマふうの音楽がながれる。

 習性なんだろうかな。

 成瀬巳喜男監督の。

 最後のほうは目の前に展開している物語とながれる音楽がまるで合ってないのだ。

 どうしてもメロドラマ調にしないと気がすまなかったんだろうか。

 物語の展開の終局は、怠惰と絶望の男、富岡(森雅之)がようやく戦争の傷をいやしてまともな職について働こうとするのだが、つまり絶望の物語は展望にむかうことになる。坂道をずり落ちていた富岡はなぜか、上がり道にはいっていく。ぼくはてっきり森雅之と高峰秀子は自殺するんだろうと思って観ていたので、釈然としなかった。

 こういう原作だったのだろうか。成瀬巳喜男監督はこのまま怠惰と絶望の坂道を二人にずり落ちさせるのが怖くなったんじゃないのか。

 習性なのか。

 あのままなら文字通り日本映画の金字塔の一つになったと思うが。

 あのぞっとするような暗さ、富岡のゲンナリするだらしなさ。

 滅多にない映画になったと思うんだが。

 悲惨な物語なのに、メロドラマ的な終わり方をさせてしまう。

 でもあの坂道をずり落ちていく暗さが眼にのこる。やはり日本映画のなかで独特の地位をしめる映画だといっていいとおもう。

 

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