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この状況の読み方はちがうんじゃないかとおもうところもあるが、なるほどと納得するところもある。参考になる。
政治状況、社会状況についての時評の本というものではひさしぶりに興奮するな。
インターナショナル・ニューヨークタイムズに書いたコラム群がいい。刺激になった。
吉本隆明よりも軽く、振りは小さいがあたらしく、もっと状況に沿って具体的な踏みこみ方だ。
けっこう<反米的>なんで、驚くな。ぼくにはそう読める。ぼくにとっては信じがたい意見もある。
原爆を投下するということが、原爆を製造する技術を持つということが、アメリカにとってそれほど大きなことで、アメリカの政治の在り方を変えてしまったといえるぐらいのことなんだろうか。
ピンとこないな。
ぼくがいちばんひっかかっているのは、アメリカとの関係で生まれた日本ではなく、それ以前からの日本だ。直接的には江戸時代にはいってからの日本の精神的な土壌だ。
いわば<封建的なところ>、<風通しのわるさ>だ。<姿をあらわさない生き方>ともいえる。
これはアメリカとの関係で生まれたものではなく、ちがう流れのもの、日本のもともとのものだ。
どうしてこれほどまでに「対米自立」にこだわるんだろう。しかし加藤典洋の言ってることが、これがいまの政治思想の強い流れなんだろう。
ぼくが政治思想として影響を受けたのは吉本隆明だった。あとはネットで辺見庸、藤原新也といったところだったから、このつよい流れには気づかなかった。
「対米自立」を日本の国としての方向の軸にすえてもいいんだろうか。それがいい結果をもたらすのだろうか。ぼくとしては「国」はどうでもいい。「国民」が問題だと思うんだが。
戦中派の吉本隆明が1924年生まれで、加藤典洋が1948年生まれだから、当然<戦後>というものへのとらえ方は吉本隆明とちがってくる。そう考えていいわけだ。
そう考えれば加藤典洋の<戦後>のとらえ方というものは、自分の目で戦後の流れをつくってみよう、読もうとする試みの、オリジナルなものなのだということが分かる。
「ゴジラ対アトム」を論じているところを読んでそう思った。
そういわれてみれば「アトム」というのは科学の子だし、「ゴジラ」は原爆の子だな。原爆の被害者、科学の負の部分を代表する、象徴する存在だ。たしかにゴジラの背中には哀愁があった。たしかにあったとおもう。
ゴジラには恐怖と影があった。
原発の絶対的な安全神話がなぜ、完璧に作られてきたのかということは、原子力の平和利用について書かれた章、「ゴジラの『暗さ』ーーー怨念から苦悩へ」というところを読んでわかった。
吉本隆明が読み切れなかったところを加藤典洋は読めている。
「原発は、産業のしくみとしても、経済のしくみとしても、戦後日本が作り上げた最高度の物質的な達成の一つなのである。絶対安全といわれたものが崩壊するには、よほどシステムの内奥にその原因があるのでなければならない。原子力の『平和利用』の『安全神話』の崩壊は、原発が原爆と同じコインの二つの面の裏側にすぎないことを明らかにしたのだが、」
「『平和利用』は、さまざまな矛盾をそこに抱え、隠しもつことでここまで日本社会が育ててきた国策プロジェクトの別名にほかならない。それは、表向きは資源にとぼしい日本のエネルギー政策の根幹である。そのシンボルとして国は当初から夢の技術としての核燃料サイクル政策を基本に据えてきた。またそれは、国家的な科学技術の水準をつねに世界の最先端レベルと同等なものに維持するための器であり、機構でもある。これによって必要な優秀な人材を育て、確保し、研究機関を併設し、海外との人的交流をはかることができる。しかし、同時に、それは核燃料サイクルによるプルトニウムの確保、原子力技術、企業・産業のしくみを通じて、つねに必要であれば日本が核武装できる技術的『ポテンシャル』を確保するためのーーー国民に合意をはからないままに遂行してきたーーー『国策』の基幹部分でもあった。
平和利用は軍事利用の隠れ蓑となる。それが、『平和利用』政策のそもそも起点から内奥深く埋め込まれてきた秘密であり、日本における原子力産業を、ほかの一般の産業とは隔絶した、秘密主義で、市場経済の原理を度外視した、いびつな『国策産業』とさせてきた原因であり、今回の事故は、その総体が、破綻を来した図にほかならなかったのである。」
とうとう出てきた共謀罪。
気が重い。
これが通れば日本社会にボディブローのような効果をあたえるだろう。
じわじわっとしかし強い地殻が動くような変化をあたえるかもしれない。
いまでもぼくたちは萎縮している。ひとの顔を見ながら行動している。<出る釘は打たれる>というふうになるまいとして行動している。
その社会の天井がいま以上に低くなると感じる。
これ以上背をかがめて生きるようになるのか。
ドレイじゃないんだ。
日本はまがりなりにも民主主義国家なのに、政府はどうしてこんな法律を通そうとするのかといいたい。
テレビというメディアにはつよい警戒心をもちながら接するようになってしまったが、たまにいいものが、興味が持てるものがある。
NHKのEテレで辺見庸の長いインタビューをメインに構成されている番組を観た。
「宗教・人生」のタイトルが出てきた。そして次に『こころの時代』というタイトルが出てきたようにおぼえている。<父を問う>というテーマだった。
3月18日の土曜日昼1時からのもので、1時間。これは再放送。
1回目は3月12日あさ5時からというとんでもない時間からの放送で、観ようとはおもっていたが、起きれなかった。
暗い画面、暗い壁、暗い疲れたしかし思ったより元気な辺見庸が語る。暗い壁には辺見庸の父親の写真が映写されている。
父親は太平洋戦争のとき兵士として中国に行っている。
辺見庸の言ってることは辺見庸しか言えないことだ。
その印象がある。
思想とかいうものはそういうものなんだけれど、辺見庸はとくにそういうカタチだ。
辺見庸という経験、資質、思考、血が、服を着、コトバをもち、肉体を持ち、猫をひざの上においてしゃべっているという印象だ。
『抵抗論』という辺見庸の本をいま読んでいるけれども、いいとおもうところ、衝撃をうけたりするところはかなりあるのだけれど、徹底的に個人の輪郭をもつ思想であって、影響の受けようもないとおもったりする。
読んでいて、<もう何処へもいけない場所>が書かれているとおもう。
辺見庸のようにやったら、おれは神経を痛めてしまうなともおもう。
しかし辺見庸の言うようなことを言うのは辺見庸しかいないのだ。ほかには見あたらない。とても貴重な表現者だ。
おもったより元気だったなという印象だ。歩きはまえテレビで観たときよりもだいぶ不自由になってしまったが、ちゃんと歩いているし、もともとはそうとう頑健な身体の持ち主だろう。
『1★9★3★7』をまだ読んでない。『抵抗論』は重く、つづけて読むことができない。しかし読み終わるだろうし、いつか『1★9★3★7』も読みはじめることになるだろうとおもう。
詩というものにたどりつこうとするみずみずしいエッセイというか評論集。
高度な表現理論が展開されるわけではないが、姿勢がよい。背が伸び、足はときどき引っかけて、ぐらついたりするが、前へ進む。
もうよっぽどなものは別にして、「高度な言語表現理論」なんて読む気がしないのだが、こういう姿勢のいい、まっすぐな声を出そうとしているものは読もうという気になる。
軽いくるぶしを持っているが、倫理のほうへ勢いをもつ人であり、ぼくとはちがう方向にすすむ人だろうとおもうが、こういうふうに詩を書こうとする人、接しようとする人は貴重なのだ。
原理として作品は作品であり、作品と人はちがうものだというのはそのとおりであり、その通りだとしかいいようのないものだけど、時代も社会も状況も変わって、その思想はあきらかにさびついている。あたらしい切実な更新が必要なのだ。
この問題意識のちかくに浅野牧子はいるようにおもう。
本能的でもあり、感染病的でもあるあの上昇志向からも自由のようだ。
表紙カバーの写真にリュックサックを背負って歩く女の人のうしろ姿が写っている。この人が浅野牧子だろう。広々とした風景を歩いている。詩へ向かう旅のエッセイ集。
『季刊 詩的現代』20号に「『憎いあンちくしょう』を観に行く」という詩を書きました。
『季刊 詩的現代』20号の特集は「荒川洋治」。
表紙写真は鶴田初江さん。題は「あふれるもの」。
渋谷で。
東日本大震災から6年経った。
あのときは職場にいて、地下にいた。
妙に長くゆれる地震だなとおもった。
それから大変だった。
合掌。
駅のホームから撮る。
きのうの夜、『カルテット』みようと思っていたけれど、そのチャンネルでやっていたのは野球放送だった。
WBC(ワールドベースボールクラシック)日本対キューバ戦。試合が10時までに終わらず、放送延長だ。
10時45分頃までがんばって起きていたが、あきらめて寝た。眠たかったし、野球が何時頃終わるのか分からないので待てなかった。
もう野球にはまったく興味がないな。
立川で。
1962年のアメリカ映画『アラバマ物語』。
原作のある物語のしっかり組み立てられている完成度の高い映画。
グレゴリー・ペックが田舎の町に住む骨のある弁護士役で主演している。
この時代のアメリカの理想的な男、父親だろう。
いまの時代の視線から観るとひっかかるものもあるが、2017年の今が、あんがい歪みをもっている時代かもしれないし、基準となる感覚なのかどうか、わからない。
進歩はあるだろうしかし過敏だとも思う。
映画の最後のほうではじめて姿をあらわす謎の男がいて、誰だろう、観たことあるなと思っていたら、ロバート・デュバルだった。
『ゴッドファーザー』で印象のつよかった俳優だ。
ロバート・デュバルは若い頃から頭の毛が少なかったのだなあ~と思った。
かたちがいい。
いちばんかたちのいい所から撮れたというべきか。
昨日と、その前の週の『カルテット』、面白かった。
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