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近くの公園に描かれてあった絵。
訳の分からないコトバを追うというのも楽しいものだなと、昼の光りのあふれる部屋でこの本を、この文章を読みつづけていると、そう思ったりする。
あきらかに普段使わないあたまと心をつかっていて、それが面白いというか、楽しいというか、愉快な感じがする。刺激になってるんだ。
「耳の聞きわける音楽上の関係が数学的に定義できること、ーーー和音と不協和音の聞きわけが数学的な比較であることを最初に洞察した人が、ピタゴラスです。」
これは「数を応用して宇宙をとらえる」のところにある話。
ほかに『哲学史講義Ⅰ』の終わりのほうに、アナクサゴラスについて話しているところで、いい文章がある。
「これに反して、アテネ人たちはソロンによって権利の平等と精神の統一を保証する国家機構をあたえられたばかりでなく、個人にも活動の余地があたえられ、国家権力は(最高監督官ではなく)国民にゆだねられ、僭主追放ののちは、国民は国家権力を手中にした真に自由な国民となりました。個々人自身が全体を自覚し、全体のなかで自分を意識し、自分の行為をおこなっていたので、だからこそ自由な意識が形成されたといえます。」
退屈といってもいい哲学の歴史の説明がつづく。
イオニアの哲学としてタレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスといった人たちの紹介。
つづいて、ピタゴラスとピタゴラス派の紹介がある。
「数の体系」、「数を応用して宇宙をとらえる」、「実践哲学」といったものの簡単な説明。
こりゃ大学の授業だな。
ときどきおもしろい考えや認識、見方が出てくるが・・・、ずっとこういう調子ならつまらんな。
ヘーゲルをはじめて読んだのは遠めだが自転車で行ける場所でやっていたヘーゲルの勉強会でだ。
いまは亡くなってしまったけれど小阪修平さんという哲学者の「ヘーゲル勉強会」でだった。
勉強したのは「精神現象学」という本だったように思う。最初小阪さんが本から何枚かコピーしたものを配ってくれて、それで勉強したようにおもう。次の回のやるところもコピーして配ってくれて、読んでおくというかたちだったと思う。
何回か行ったけれど、やめてしまった。
ヘーゲルの精神現象学のなかには印象的な美しい緊張にみちた文章があって、そこは惹かれたけれども、全体として取っつきにくかったようにおもう。難しくもあった。
この『哲学史講義Ⅰ』というのは読みやすく、取っつきやすい。
『哲学史講義Ⅰ』を買ってから、いちばん興味が持てる本であり続けている。けっこう夢中で読んでいるところがある。
ぼくには難しいものではあるが、だいたい興味を持てて読んでいるし、大体のところは分かって読んでいる。
だれかがジャズに関して言っていたことを思い出す。
「前衛的なジョン・コルトレーンからジャズを聴き始めるのはよくない。まずデューク・エリントンやルイ・アームストロングぐらいから始めるべきだ。」
というふうに。
ヘーゲルというのは哲学の代名詞みたいな存在だった。最初にこの『哲学史講義Ⅰ』から読んでいたら、ヘーゲルのイメージも、哲学の印象もすこし変わっていたかもしれない。
おやと思ったのは、ヘーゲルは「抽象的」というコトバをあまりいい意味では使ってないということ。
「具体的」ということをプラスの意味合いでつかっていること。
「主観的」というコトバをマイナスの意味ではつかっていないこと。これはぼくのもっていたイメージとちがう。
そして身体というものを軽くみていること。
そんなことを感じる。
インドの哲学についてのどうということのないヘーゲルのまとめを読んでいたら、やっぱりいつの時代の人か知りたくなって、インターネットで調べると、1770年に生まれ、1831年に死んでいる。
ドイツのベルリンで死んでいる。
今から246年前に生まれ、185年前に死んだ人だ。18世紀と19世紀に生きた人だ。
ヘーゲルの後の人でその業績を引き継いだというイメージのカール・マルクスは1818年に生まれ、1883年に死んでいる。きっちり19世紀の人だ。
「精神は自然な意思から解き放たれ、自然物への埋没状態を脱していなければならない。世界精神のはじまりの形態は、この離脱いまだおこなわれぬ、精神と自然の一体化した状態ですが、それは直接的な一体化の状態というべく、真の統一ではない。」
このへん読んだりすると日本人には向かないんじゃないかと思う。
読みすすめていくとヨーロッパ人に見下されている感じもする。
しかしずばり東洋人のダメなところを言い当てられてもいる。
とてもじゃないがヨーロッパ人のようにはなれないなと思うし、ヨーロッパ人もヘーゲルのいうすさまじい自由にむかうことはできないんじゃないかと思う。
なにか至上にむかって常に前進しなければならないようで、人工的な感じがするな。
日本の社会でヘーゲルのいうように生きるのは無理だ。20代前半までならこういう生き方も、精神の実在を信じてという生き方も可能だろうが、ずっと続けるとすればつぶれるだろう。
もたない。
ヨーロッパの、ドイツの社会でもこういった生き方が可能だとは思えないな。ヘーゲルはいつの時代の人なんだろう。150年くらい前の人か、特殊な環境にいた人なんだろう。
「それが自分をもっと具体的につかむようになると、細部にこだわることも、ちがいのうちにのみ自分を知り自分を所有することもなくなり、具体的精神として、自分とはちがう現象形態のうちにも核心的なものをとらえ、その現象を理解し、それに関心をむける。つまり、その内容やその内実のうちにいまや自分自身を認識し、ここにはじめて、自分の対立物を理解し、それに正当な価値を認めるのです。」
本屋でなんとなくこの本を手にとり、なんとなくこのページを開け、読んだのがここのところで、ぼくはじぶんのなかが、この本を読むことによって、なにか動くような予感がして、買ったのだ。
いま読んでみると、あのときの感覚はやってこないのだが、でもぼくのなかで何かが起こるかもしれないと思ったのだ。
『哲学史講義Ⅰ』は読んでいて、ここに書かれていることは、学校にいたとき、小学校や中学校にいたとき教えられたことのなかにはいってるんじゃないかと思った。もちろんヘーゲルという名は出てこないし、むずかしいものではなかったが、感性的なものを低次なものとし、理性的なものを高次なものと考えることは授業で習ったことのなかに含まれていたような気がする。
出口のない世界のような気もする。<考えるな 感じろ>と言ったブルース・リーなら何というだろう。
吉本隆明の世界だとも思った。吉本隆明はヘーゲルの影響を強く受けているなとおもった。
本屋でこの本を立ち読みしていて、この本はおれにとって重要な本になるかもしれない。おれはこの本を読んだほうがいいかもしれないというカンが働いた。
もう哲学の本を買うことはないだろうと思っていたし、本の裏には「本体1500円(税別)」とあったので何度も迷ったが、結局買ってしまった。
そして買ってよかったと思う。
ヘーゲル『哲学史講義Ⅰ』(長谷川宏 訳)。1620円払ったとおもう。
この前にじつは失敗していた。
高橋和巳という人の「こどもは親を救うために病気になる」というような本を買って、10数ページくらい読んで捨ててしまった。
新刊で買ったものだ。
最初はあの高橋和巳がこんな本を書いていたのかと驚いて手にとったのだが、ちがっていたけれども、それでもタイトルが面白くて立ち読みしているうちにこれは読んだほうがいい、読んでみようと思い切って買ったのだが、だめだった。
もちろんぼくは作家の『邪宗門』を書いた高橋和巳がこんな本を書いていたのかと驚いて手にとったわけだけれど、じつは同姓同名の人でこっちのほうの高橋和巳は精神医学の人だった。
立ち読みしていて、これはなにかおれにヒントをくれる本かもしれないと思ったのだが、ダメだった。
たぶん自分の母親との関係のことで、なにか気づくことがあるかもしれない、新しい視点をくれるかもしれないと思ったのだ。でもダメだった。
いかん体験だ。
冬の木って感じだ。
街があった。
2017年
あけましておめでとうございます
いろんなことがあって、またいろんなことをやるわけで、
当然、身体はそのたびに緊張します。
その身体を、その身体の緊張を解くことを、 ゆるめることを
心がけようとおもっています。
身体の強弱をつけるというか、 そんな感じをおもっています。
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