早野龍五+糸井重里「知ろうとすること。」 本棚にある本

あるところに働いていたころ、ぼくのいる場所というか机と椅子の置いてある場所は地下にあって、その室は地下のドライエリアとつながっていた。ドライエリアに出るトビラを開けるとすぐに足もとにある雨水ますに気づく。
雨水ますは編み目型のフタというか、大きな編み目のフタで、中の水がよくみえるようになっている。
ときどきドライエリアに出て見上げると、細長く四角に区切られた高い空がみえるそんな場所だった。
ドライエリアには雨がふったときの排水路というか水を集め流していく側溝があり、側溝の水は雨水ますへとつづく。側溝にはフタは置いてない。
雨水ますの水はある水位以上にはならないようになっているが、常に水がたまっている状態だ。
その雨水ますが扉を開けるとすぐ、ぼくの机から、ぼくの居るところからほんの1.5メートルってところか、ほんとにすぐそばにあったのだ。
ぼくの働いていた所は一種の公共の仕事をしているところであり、建物も一種の公共の建物ということになる。あるとき市役所が放射能の残留の検査を、その建物でおこなっていることを知った。
もちろん福島の原発事故以来のことだ。
検査している場所はそのぼくのすぐそばにある側溝と雨水ますではないが、他の場所の側溝と雨水ますかあるいは集水ますだったとおもう。
ぼくが検査がおこなわれていることを知ってからのことだが、測定値はつねに危険な数値よりはるかに低い値だったし、または不検出という結果だった。けれど、ぼくは側溝の水とか雨水ますの水には放射能がたまりやすいのだということを知った。
大丈夫だ。問題ないだろうとは思ったが、えーおいおいという気持ちだった。
つねにその地下の部屋にいるわけではないのだが、かなりの時間そこにいたし、密閉されたせまい部屋だったので、換気のためにドライエリアに通じるトビラを開けておく必要があったのだ。
そしてまったくすぐそばにその雨水ますと側溝があったのだ。
なんとなく不安な気持ちを感じているときに、そういう不安を抱えているときに、この『知ろうとすること。』という本のことを知って、読んだのだ。
この本を読んでいくうちに、ぼくの底のほうにあった、無意識的なところにたまっていた不安感がきえていったのだ。
消えていくのが分かった。
そのときからこの本は、ぼくの本棚にある。
内容は、と考えるとほとんどおぼえていない。
糸井重里が、放射能にくわしい大学の先生である早野龍五に、読者が聞きたいようなことを、とうぜん放射能の素人である大半の読者が聞きたいようなことを、早野龍五にたずねていて、それに早野龍五がわかりやすく答えているという本だったとおもう。
とても飲みこみやすい本だったとおもう。
内容はほとんど忘れているけれども、不安な気持ちがきえていったときの感じは覚えているのだ。
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雨水ますと側溝のフタの説明もしておいたほうがよいと思って、そのあたり少し手を加えました。
投稿: 布村 | 2016年11月 6日 (日) 07時35分