「モンパルナスの灯」を観に行く
1980年代か1990年代にたしかNHKのテレビでだとおもうがこの『モンパルナスの灯』を観て、印象に残った。ずっと覚えていた。
それでこんど映画館に観に行ったわけだけれど、こんどは前ほどの印象は残らない。
ジェラール・フィリップ演じるモディリアーニに感情移入できないのだ。不満がでてくる。
この不満は最後の方の、モディリアーニの貧しさをみかねた気のいい友人が、絵の売り先を探してきてくれて、モディリアーニ、妻のジャンヌ、その友人とでモディリアーニの絵を買いそうな大金持ちの所に絵を売りに行き、話がまとまりかけるのだが、そのアメリカの大金持ちが絵をたんに買うというのではなく、自分の会社の商品の宣伝用に、ビンのラベルなどに使うために、その元絵として絵を買おうとしているのだと知ったモディリアーニはこの話を断ってしまう。
極貧のモディリアーニと妻のジャンヌは絵をなんとしても売りたかったが、モディリアーニはこの話を断ってしまう。
モディリアーニはジャンヌに絵を売ることを断ってしまったことを謝りながら、外に出て行く。
カフェにデッサン画を売りに行く。
ここでじつに粘り強く売ろうとするのだ。酒とタバコの煙の中のカフェ、来ている客はモディリアーニのことなど目にとめない。モディリアーニのデッサンをみようともしない。しかしモディリアーニはデッサン画を売ろうとしつづける。
ここのモディリアーニを見るまではあんまり感情移入はできなかった。
共感できなかった。
アル中のプレイボーイのダメ男の画家としかみえない。
しかしよくよく考えてみればモディリアーニのこの選択は当時の画家にとってはとくに極端とはいえない選択じゃないか。常識的といってもいい選択じゃなかったかとおもう。
ピカソだってシャガールだってマティスだってこういう形では売らなかっただろう。
実話としてみればそうだ。
絵の好きな金持ちが絵が好きです。絵を買いますって話じゃなくて、自分の会社の商品の宣伝用として、その元絵として絵を買おうというのだから。
そういう話なんだ。
だからこの映画で芸術至上主義的な「悲劇」としてモディリアーニの選択を扱うことはなかったんじゃないか。
モディリアーニはクールでタフな選択をしたともいえる。
売りたかったがよくよく考えてよくよく感じてその選択をしたともいえる。
そういう選択をせざるえなかったモディリアーニが現実や社会の硬さ、苦さに立ち止まってしまう、立ちつくしてしまうというふうに映画を作ってもよかったんじゃないか。
難しい映画になるが。
しかしこれはいま現在の人間の見方で、1950年代の映画としてはあれでよかったんだろう。
あれは1950年代の映画なのだ。
ジャック・ベッケル監督のこの映画は1958年にフランスで作られている。
この映画を作ろうと集まった人たちが、その頭のなかにモディリアーニの生と死を芸術と現実の対立として、和解できない対立としてはじめからそれを前提に映画を作ったのなら、『モンパルナスの灯』は60年前の映画だということで終わってしまう。
その対立は正しく今もあるといえるけれども、もう少しねじれてしまい、もう少し複雑になってしまい、もう少し訳わかんなくなっている。
でも俳優の魅力だけは時を超える。
演劇出身ということを感じさせるジェラール・フィリップよりも、モディリアーニの妻ジャンヌを演じたアヌーク・エーメが印象に残る。
すごくいい。
アヌーク・エーメは『男と女』のときも素敵で、深夜テレビで観たたぶんデビューしたての頃だと思うがロミオとジュリエットを下敷きにしたような映画のアヌーク・エーメもよかった。十代の頃のアヌーク・エーメだったとおもう。
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