大いなる木

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これで3種類めのみそだが、これが一番おいしい。
自転車置き場のあたり。
映画館の中。
映画館の外壁の絵・・・だったと思う。
「かきこうじょう」ではなく「かきこうば」と読む。
ぼくの故郷の岡山でのドキュメンタリーということで観に行った。「過疎の町にグローバリズムがやってきた。」とチラシに宣伝文が載っている。
そういう映画だろうと思って観に行ったんだけど、印象はちがうな。
監督の想田和弘のドキュメンタリーの対象である牡蠣工場の人たちとの対応をみていると、カメラをもった風見鶏という感じで、視点も思いもはっきりせずに、どんなつもりで映画を撮りに行っているのだろうと思う。そのことが気になってしまった。
というわけで何となく観ているというふうだったが、しかし映画の半ばぐらいになったところで、映画が締まってきた。
新しく牡蠣工場にやってくる中国人をおもんばかって、牡蠣工場の責任者らしき人物が想田和弘にドキュメンタリーの撮影をやめてくれと言い出すときだ。となりの県の広島で技能実習生とかいうことで牡蠣工場で働いていた中国人が、雇い主である日本人を殺してしまった事件があったりして、牡蠣工場の責任者としては貴重な労働力である中国人が、ドキュメンタリーの撮影にたいしてどういうふうに思うかわからないので、撮影をやめてくれと言うのだ。
それにたいして想田和弘はさすがに「はい、わかりました」とは言わない。遠慮してるときではない。粘ってなんとか撮影の続行ということにもっていく。このへんをみていて当然のことではあるが、このドキュメンタリーに執着してるんだなというのが伝わってきて、こちらももっときちんと映画を観ようという気になる。
そのあとじっさいにふたりの中国人の男が、牡蠣工場にやってきてから俄然おもしろくなるのだ。誰でも、ほとんどの人が「はじめての職場」というものを体験しているわけだから、ふたりの中国人の緊張がわかるし、つたわってくるのだ。
ここからは座席のなかでウトウトしかかることもなく、いい緊張でずっと最後まで観た。
言葉もよくわからないのに、はじめての職場、それも外国の職場なのによくがんばるもんだなと、仕事をおぼえていこうとするふたりの中国人に感心したりする。けっこう対応してるじゃないか、この人たちは優秀なひとたちじゃないか、優秀な人たちが来たんだなと思ったりする。
映画が走りだし、ぼくは最後まで完全に集中して観た。
ふたりの中国人は本番の仕事をはじめる前に研修を受けることになり、ひとりの仕事のできそうなオッサンの指導を受けるその研修の日の様子をカメラは追う。
まごつき、言葉が分からないので見よう見まねで仕事のやり方をおぼえようとする二人。ひとりはけっこう平気で船の縁に乗って作業したりする。意外な身の軽さにちょっとおどろく。といってもふたりとも船に乗るような仕事をしていたようにはみえない。オッサンの指導によくうなずくのだが、硬い笑顔だ。そして最後、船と牡蠣採集の機械をホースで洗い終わったところで映画は終わる。
この「観察映画」と想田和弘自身が名付けている映画はここで終わる。
ふたりの中国人が日本にやってきて体験する「はじめての職場」ということのとまどい、緊張、それを取り巻く牡蠣工場の日本人たちの期待、不安、計算ということがよく理解できた。よくつたわった。またそれがいちばんの印象で、「グローバリズムが町にやってきた」という映画じゃない。
グローバリズムということでいうのなら、ぼくはこの岡山県の牛窓(うしまど)という海のそばの人たちはわるい体験をしていないと思った。
グローバリズムが町にやってきて、この地方にやってきて、この港町にやってきて、いわば無理やり「ひらかされる体験」をこの地方の人たちはしてしまうわけだが、それはこの地方にとって、この地方の人たちにとって悪い体験じゃないとぼくは思った。
午前中に1時間くらい整体をやる。片山洋次郎さんの整体で腰椎1番から腰椎5番までの微妙運動と呼ばれているものをやるわけだが、このときジャズをかけながらやるようになった。
ジョン・コルトレーン、マイルス・デイビス、チャーリー・パーカーなんかをかける。
グレン・グールドの弾いている「ゴールドベルク変奏曲」をかけたこともあるけれど、これは途中でジャズにかえてしまった。あんまり向いていないのか。そのときはそうだったのか。
かけるといっても今ぼくはラジカセが壊れて資源物に出してしまったので、ユーチューブのものをパソコンで聴いているわけだけど。
腰椎1番から5番までの微妙運動というのは全部あおむけに寝て、天井をみてやることになるので、途中で立ってやる運動もいれている。
壁に片手をかけて、肩や腕、わき腹をのばすヨガ系のドナ・ファーリの肩時計、野口整体系の竹をつかって、身体を、とくに腕と上半身を伸ばす運動など。
それにこういうことには「すき間」をいれたほうがいいだろう、気楽にやったほうがいいだろうと考えるようになって、途中で水を飲んだり、麦茶を飲んだりして、だいたい1時間くらいかけてやっている。
散歩中。
散歩中。
商店街の天井の蛍光灯。
ウォーカー・エヴァンズの写真集『アメリカ』。1930年代のアメリカの農民の貧しさにびっくりした。素足にぼろぼろのアカがこびりついた服。家族全員がそうだ。白人の農民だ。そのころの日本の農民と貧しさはあんまり変わらないんじゃないかと思った。
名前はわからない。
朝の散歩中。
TBSの『報道特集』。いつも面白いというか、興味をもてるというわけではないが、貴重な番組なのでみている。
電波停止発言にたいしての、本来放送法というものはこういうものなんだという見方、考え方はただしいと思うが、まえよく扱っていたヨーロッパの難民問題についての見方には、ぼくはひっかかっている。
ちがう民族、ちがう言葉、ちがう宗教をもった人たちが個人としてではなく、集団として何万、何十万、あるいは百万とじぶんの国に入ってくることに抵抗感や不安感をもつのは、ヨーロッパの、その国の人たちにとってはごくあたりまえのことだとおもうのに、そのことに目が向いていない。そういう心性の「あたりまえさ」というものが視野のなかにはいっていない。
そういう保守性というのは仕方がないというか、人間の自然性ともいえて、否定できるもんじゃない。
否定してしまったら正しいことが正しいことではなくなってしまうように思う。
ましてイスラムのひとたちは容易にはヨーロッパの社会には同化しないことがもう明らかになっているわけだから、これほど多くのひとたちが入ってきてしまったら、将来ヨーロッパがヨーロッパたり得なくなってしまうのではないかと考える人たちがいても不思議じゃない。
いくら正しいことといっても、人間はまったくの観念体じゃないし、生活をしていくうえで、防御や「保守性」を身につけていかなければならないということもある。
人間のもつ本能や自然性を無視したところの思想や見方というのは用心しないと、力をもったときは抑圧になってしまうんじゃないかとぼくは思う。
散歩中。
マグナムというのはロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、デヴィッド・シーモア、ジョージ・ロジャーらが結成した写真家集団のことだ。
ロバート・キャパはよく知られている写真家で、スペイン内戦のときの倒れかかる兵士の写真や第二次大戦の連合軍のノルマンディ上陸のときのちょっとボケている、渚で銃を撃とうとしているような兵士の写真などは一度はみたことがあるんじゃないか。そしてロバート・キャパはあのイングリット・バーグマンの恋人でもあったという男で、なんともうらやましいというかすごい男なのだ。1954年にインドシナ戦争の取材中に地雷に触れて死んでしまう。
アンリ・カルティエ=ブレッソンは報道写真も撮っているけれど、パリなどで人びとの日常のスナップ写真をよく撮っている人で、静謐なとてもいい写真を撮っている。
最近観たのはたぶんフランスじゃないかとおもうけれど、人の映っていない、道をはさんだ木の列の写真で、道と木と空の写真で、みていてしびれるような思いがした。
歩いているときふとみつけた。
朝の散歩中。
まえから気になっていた三木成夫(みきしげお)という人の『生命とリズム』という文庫本を買った。
図書館で借りればいいともおもったが、いま手に入れないと、結局よまないかもしれない、縁がなくなるかもしれないと思って買った。
最初のほうにある「生について」という文章を読んで、深く胸にとどくものがあって、何時のものなのかとみてみれば、1972年におこなわれた講演をもとにした文章だった。
またしても気がつかなかったなとおもったが、1972年にこの文章を読んでいたとしても、素通りしてしまっただろう。じっさいは。たぶんそうだ。
それに初出一覧をみると、一般の読者の目に留まるようなところに出ていたわけではなさそうだ。この文庫本の元本は1996年の出版だ。
最後まで読んでみなければ、最後まで読まないとどういう本なのか、人なのかわからないところもあるだろうが、三木成夫の医学的な知識と生をみつめる目との感覚的な結合のことばに惹かれる。
こういう人はこのころ、1970年代には他にいなかったんじゃないかな。
三木成夫は解剖学をやっている人で、つづけて読んでいくと、けっこう医学的なむずかしそうな記述のところも出てくるのだが、ぼくとしても曲がりなりにも13年間くらい整体をやってきているわけで、身体についての解剖学的知識と生きた身体の感覚とのつながりがどうなっているんだろう、このときの気持ち良かったり、気持ちわるかったりする感覚、痛かったり、張っていたりというのは身体のどこから、医学的にはどういうふうに伝わってきているんだろうという興味がある。そこで、そのへんで何とかついていけるんじゃないかと思ってる。
表紙の四つの絵は胎児の絵だ。胎児というのは、母親の胎内にいる子というのは、人類の生命の歴史を、経過をたどってくるらしい。
衝撃的な本だった。網野善彦の本は前にも読んだことがあるが、こんなに強い印象はもたなかった。
日本の社会の歩みの常識とおもっていたものが、ひっくりかえされる。日本といえば長く農業が単一的な基本だったということになっているが、そうではなく、もっと複雑な社会のながれの歴史のなかにわれわれはいるらしい。
商店街のそばの路で。
「さんまの味」と読む。小津安二郎監督の1962年の映画。
前に観た『小早川家の秋』はとくに文句をいいたいとは思わなかったが、この『秋刀魚の味』は平凡な日常生活の完全賛美映画とでもいいたい映画で、あたりまえの日常を否定されれば、いや、それは・・・と言いたくなるが、えんえんと美しいところだけ撮ったような日常生活を観せられつづけると、さすがに違和感というか、ちょっと待って・・・といいたくなる。
映画の終盤で娘が嫁いだあとの父親(笠智衆)のくずれをのぞけば、ほぼそういう感じだ。
いまの時代で、この小津安二郎の『秋刀魚の味』をそのまま観て、感動する人なんていないと思う。
1962年にこの映画を観たひとたちはどう思ったんだろう。
この家族のあたりまえの生活をうたがわない美しく美しく撮った映画は当時どう受けとられたんだろう。1962年ごろは反時代的な匂いをもった映画たり得たんだろうか。小津安二郎はどういうつもりでこの映画を撮ったんだろう。何かに対抗してこういう映画を撮ったんだろうか。この映画に<対抗>するようなものが当時あったんだろうか。
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