小津安二郎の「小早川家の秋」
ラピュタ阿佐ヶ谷に小津安二郎の『小早川家の秋』を観に行った。
ちいさな映画館だが満員。通路に椅子まで出されていた。
ぼくが観に来た限りでは、こんなに観客がこの映画館に集まったことはない。ほとんどの人のおめあては最近亡くなったと報道された原節子だろう。
じぶんのことをいえば、この映画を観に来ることはもう決めていたのだ。こっちのおめあては小津安二郎。原節子も観たくなったが。
『小早川家の秋』。1961年の小津安二郎の映画。
多彩な女優陣の核になるのは原節子ではなく、新珠三千代だ。
映画にあらわれた原節子は立派なおおきな造りの顔をした女優だなという印象。
監督の小津安二郎は特異な映画の作り手だと観ていておもう。
低い位置にカメラを置いていることを、低い位置から俳優たちをみていることを意識させられる。
そして俳優たちの会話を撮るときのカメラの位置も独特だ。俳優の顔にたいして正面にカメラを置き、まなざしだけカメラの中心のそとにおき、ゆっくりとした会話をゆっくりとしたテンポで映していく。
ふつうの人びとのふつうの暮らしを切りとっている。暮らしのなかの体の動きや会話を切りとる。
日本の家というものを、その造りというものをいろいろな視線で切りとる。
日本のちいさな世界の映像美といえるものが満ちあふれていて、ぼくは観ていてデヴィッド・リーンの大きな風景の世界を思いだした。『アラビアのロレンス』や『ライアンの娘』で風景を大きく、このうえなく美しくおおきく撮ったその映像の世界の対極にあるものとして小津の映像美の世界を観た。
この小さな世界をずっと観つづけていると息が詰まってくるが、その映像のながれをパッと転調させるものとして、映画の流れを変えうるものとして、わき役ではあるが原節子の華やかさと杉村春子のサラッとしたドライな速いセリフ回しがあった。
これは芸術映画ということになるな、芸術映画みたいだな、商業映画というのとはちょっとちがうなと思いつつあったが、中村鴈治郎が扮する京都の道楽者の造り酒屋の主人がパタッと死んでから、映画のながれに動きがでてくる。息がつまっている状態なので、ホッとした。
ここから映画の展開は速くなっていくのだが、川でなにかを洗っているらしい笠知衆や望月優子が出てき、川の音のあまりしない静かな映像のあと、火葬場の煙突から煙がながれていく場面が映り、この映画を観たことがあるのを思いだした。
この映画だと思った。
テレビで観ているときおおきな煙突から煙がながれ、黒い着物の女たちの背筋の伸びたくっきりとした姿があり、カラスの出てくる映像をテレビで、NHKだったと思うが、観たことがあるのだ。用事があって途中で観るのをやめたのかもしれない。小津安二郎の映画ということは知っていて、何という映画を観ていたのだろうと、あたまのどこかに残っていた。
『小早川家の秋』を観ていたのだ。
映画は最後の動きのながれのとき、原節子の姉とやはり中村鴈治郎の娘である司葉子の妹の会話が、橋の上の会話がしずかに淡々と映されるのだが、それが過ぎ、さいごの墓とカラスだけの映像が、おおきく映り、その映像で小津安二郎の映画らしからぬ、強いドラマチックな音楽が流されるのだ。
そして終わる。
あれは何なんだろうと思う。あの音楽はなんだったのだろうと思う。何か意味があるのだろう。
日常の暮らしこそ劇的なものなのだ、日々の暮らしこそ怖れるべきものなのだ、という小津の思想を示したのか。ほかに理由があるのか。そのことをしばらく考えた。
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