泥の世界の男たち 唐組「鯨リチャード」
唐十郎の描いてきた世界というのは、世の中の最底辺のくら闇の世界で這いずりまわり、転げまわる男たち女たちの世界といえる。
男たちや女たちは泥に足をとられながらもそんな世界からの脱出や飛躍をこころみる。なかには最底辺の世界を、地底のような世界を、希望の死んだ世界を、一瞬のうちに妄想や夢の王国に変えようとたくらむ者たちもでてくる。
<眼をとじて開ければすべてが変わっている。そんなふうにならないものか>
しかしかれらは本当にこの泥の世界から逃げ出そうとしているのか、逃げ出したいのか。じつは逃げ出そうとしていないのではないか。
唐組・第56回公演『鯨(げい)リチャード』
作・唐十郎。演出・久保井研+唐十郎。
最初にぬーっと突き出される気田睦の腕のひじから先が見事にきたえられていて、なんの仕事をしてるんだろう、肉体労働者なのか、ジムに通っているんだろうかと想像させる。
その気田睦が演じるのはせむしのイングランド王リチャード三世の名をもつ新宿の鯨カツ定食屋の女将なのだ。この女将は鯨カツ屋だけでは食べていけず、なにやらほかの仕事もやっていそうなのだ。
気田睦の女将のいつもはいているよれよれの白いステテコがなんかとてもおかしいのだ。
唐組の舞台で常に中央に立っていた稲荷卓央がこの舞台には出ていない。代わって中央に立つのは唐組の若手俳優福本雄樹だ。
福本雄樹は熱演だが前半の舞台では気田睦の細部までのうまさと安定感が際立っている。
クジラの油がこびりついている汚れた鯨カツ屋を中心に動きまわる、新宿の地底に住むような登場人物たちはそれぞれの立場の言葉を所有している。もっている。しかしかれらは言葉の意味を投げ合っているわけではない。
声の調子と響きといきおいを投げ合っている。
意味ではなく声の共鳴と統一と交差が新宿の地下の世界の天井と道路と泥に響きわたる。そのこだまが飛び交う。
この下水道のようなひかりの差さない世界からかれらは走り去りたいのか、とどまりたいのか、脱出口をみつけたいのか、みつけたくないのか。
この地下通路の世界を破壊したいのか、ひっくりかえしたいのか、うつくしく飾りつけたいのか。
唐十郎の影しかみえない劇団のその跡に久保井研がしっかりと立っていて、唐組としてのおさまりがよくなっている。けっこう長く観てきたものとしてはこれでいいんじゃないかと思う。劇団としての落ち着きが出てきている。
テンポをはずしながら出てきて、あっというまに自分の間合いの舞台にする辻孝彦はやっぱりおもしろくて味のある役者だと思ったし、岩戸秀年はつかみどころのない不気味さと気味悪さが同居する。
次の舞台もやっぱり観に来たいと思ったのだ。
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