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2015年9月

2015年9月29日 (火)

近所の畑

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 散歩中。

2015年9月26日 (土)

「野火」を観に行く

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 渋谷のユーロスペースに塚本晋也監督の『野火』を観に行った。大岡昇平の小説の映画化だ。

 まえから気になっていた映画で、でもなんか腰が重くて観に行かなかった。新聞に載った塚本晋也のインタビュー記事を読んでようやく観に行く気になった。それでやっているはずのいつも行く映画館の上映スケジュールをしらべてみると、『野火』の上映はもう終わってしまっていた。

 それで渋谷まで行くことになった。

 塚本晋也は『野火』をつくった動機として、あやうい方向に行こうとしている日本の政治が、その政治への抵抗感が動機のひとつになったというようなことをしゃべっていたと思う。しかし映画そのものは兵士たちの身体がそげ、飛び散っていく戦場の描写、いのちを失った人間の身体のグロテスクななまなましさを観ているうちに、反戦というよりもそれを突き抜けて寓話を観ているような気持ちになる。ここに塚本晋也の資質をみる。

 塚本晋也といえば自主制作というイメージで、ほとんどの作品が塚本晋也の監督、脚本、主演とおもっていたけれど、公式サイトをさっとみてみると、そうじゃなかった。

 ぼくが前に、2010年に観た『鉄男』もよくよく考えてみれば、思い出してみれば、主演じゃなかったな。

 今回の『野火』は塚本晋也の監督、脚本、主演だ。戦場を右往左往する肺病やみの兵士役だけれども、これは鬼気迫るものがあって、肉も落ちていて、塚本晋也のこの映画への打ち込み方のすさまじさを感じる。

 『ナイトクローラー』のジェイク・ギレンホールもすごかったが、『野火』の塚本晋也もすごい。

 目に残ったのは、塚本晋也演じる田村一等兵が戦争を生き残り、日本に帰って来て、じぶんの家に住んでいるときの映像の暗さだ。その家の闇のような暗い映像が目に残った。

 映画を観ながらたびたび思ったけれど、塚本晋也の作った映画のなかでいちばん金をつかっている映画じゃないかと(無意識にだいじょうぶなんだろうかと思ってしまいながら)観た。小屋が派手に燃え上るなど、カネ使ってるなあと思った場面がいくつもあった。

 音楽が印象に残ったので誰だろうと、最後の出演者などの名がスクリーンに流れるのをじっと見ていたが、わからなかった。それで『野火』の公式サイトでしらべると、石川忠というひとだった。

2015年9月25日 (金)

森の風景

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 谷保天満宮。

2015年9月24日 (木)

近所の風景

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 歩いていたら、ぱっと目に入る木があった。

2015年9月20日 (日)

「ビリー・ワイルダー自作自伝」を読む

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 ヘルムート・カラゼクという人がビリー・ワイルダーに長時間くり返し取材をして、それを基にして書いた『ビリー・ワイルダー自作自伝』(訳・瀬川祐司)を借りた。

 図書館で借りたとき、どうだろう、これでいいんだろうかと思ったが、拾いものというか、よくできたビリー・ワイルダーの本だった。

 この本には2枚の貸出票がはさんだままになっていて、2003年と2010年のものだった。2003年以来たぶんぼくが3人目の借り手となった。

 オーストリアに生まれたユダヤ人であり、のちにアメリカに亡命することになるビリー・ワイルダーは自身の生涯をよく語っている。ヘルムート・カラゼクという人物をよほど信用したのか。気が合ったのか。

 少年時代にアメリカに亡命したのだと何かで読んだように思っていたが、そうではなく、ビリー・ワイルダーはアメリカに亡命したときはすでに脚本を書いている青年であり、監督も経験していた。1933年12月に、27才でアメリカに渡っている。(1934年に渡ったという記述もある)。

 『ビリー・ワイルダー自作自伝』に出てくるナチスドイツに追われて亡命した人びとの話はいろんなエピソードがあって興味深い。ドイツのスターだったマルレーネ・ディートリヒ(マレーネ・ディートリッヒとは呼んでない)なんかの話がそうだ。ドイツのナチス政権は亡命したマルレーネ・ディートリヒを呼び戻そうといろいろ動いていたらしい。

 そして亡命した人間、自分の国を捨てざるえなかった者たちはどうしても、あいまいな輪郭のぼやけたような光と闇を抱えてしまうものらしく、その背がみえるようで印象に残る。

 キャロル・キングの自伝もそうだったが、このビリー・ワイルダーの事実上の自伝も長い。図書館で借りれば当然返す期限というものがあるから、ぼくは並行してほかの本を読んでいることもあって、期限に間に合うだろうかとぶ厚い本をみて思ってしまう。ぶ厚すぎていくら読んでもあんまりすすんでないようにみえる。しかしこの『ビリー・ワイルダー自作自伝』には映画の歴史がつまっている。ビリー・ワイルダーお気に入りの監督はやはりドイツからアメリカに移ってきたエルンスト・ルビッチという監督だ。グレタ・ガルボが出ている『ニノチカ』という映画を撮っている。

 モンローとエリア・カザンのエピソードは本当だろうか。『エデンの東』を観たぼくには、エリア・カザンはとてもまじめな人に思えるが・・・、まあ、どっちにしてもこういうシモネタを読むのは面白くはある。

 『サンセット大通り』でビリー・ワイルダーの名前を覚えてから、ビリー・ワイルダーの作品というものを意識するようになった。ぼくがいちばん好きなのは『アパートの鍵貸します』だ。テレビで観ただけだけれども、とてもいい感じで残っている。この映画を観てから、ビリー・ワイルダーは特別な監督のひとりになったのだ。シャーリー・マクレーンが魅力いっぱいだった。

 そして『アパートの鍵貸します』は1960年の映画だが、そのまえ1940年代の前半、日本とアメリカが戦争をしていた頃、ワイルダーの話にはほとんど戦争の話がでてこないのだ。映画、映画、映画なのだ。

 ヒトラーの脅威のため亡命したユダヤ人としては当然アメリカの戦争に肯定的だったろうが、そうだとしても窮屈な感じがないのだ。日本は映画も何も戦争一色だったろうから、国の広がりというか、許容力の強さ、底ぢからのちがいというものを感じる。

 それとビリー・ワイルダーのちょっと驚いたチャップリンへの批判から思うことは、亡命した人間として、危うく難を逃れた人間として、じぶんの命を助けてくれた国がもつ、アメリカがもつ、主流とする政治的な価値観から離れることを避けようとする心理が、ビリー・ワイルダーには働いていたんじゃないかとおもう。

 無声映画時代のチャップリンを高く評価し、トーキーでのチャップリンを認めない。チャップリンのしゃべる映画には『独裁者』、『殺人狂時代』という名作があるのだ。このへんはよくわからないな。

 読んでいくとビリー・ワイルダーは戦争が終わったすぐあとのドイツに行って、軍によるドイツの文化的な教育という、アメリカ軍のおこなったドイツ民主化政策の、映画部門の責任ある地位について、いろいろアメリカ軍に進言している。反ナチ、反ファッシズムではあるがプロパガンダ映画を作ろうとしている。生粋の映画人ワイルダーのイメージがあるからびっくりするが、そういう一面もあったのだ。

 愛国者であり、ハリウッドの成功した業界人という面もあったのだ。それにヒトラーの率いたドイツというのは到底許すことのできない相手だったろう。(母親と継父と祖母をアウシュヴィッツで殺されている)。ストレートなもの言いはまずしないワイルダーだから、そんな印象をもたせないのだけれども、やはり憎しみはあっただろう。

 そしてアメリカに吹き荒れたマッカーシズムのピークの時代がやってくる。ビリー・ワイルダーはどうしたんだろう、どうふるまったんだろうと、どきどきして読んだけれども、非米活動委員会への協力はしていない。アメリカの多くの映画人を巻き込んだマッカーシズムとは一線を画している。ホッとする。ハリウッドの映画監督のなかでは数少ない振る舞いだったともある。

 ヘルムート・カラゼクはだんだんとワイルダーの崇拝者のようになっていて、ここのところでの距離感はどうだったんだろうと、思ったりもするが、読んでてよかったとも思うのだ。このとおりであってほしい。

 そうするとドイツに行き、軍に協力しておこなったドイツの再教育という活動、二度とナチスが表に出てこないようにするという「文化的な再教育」、映画の検閲もやり、あるべき映画製作の提案などもやった活動というのはビリー・ワイルダーにとって突出した行動のようにおもえてくる。この時期のワイルダーは人生のなかでいちばん映画と政治が近づいたときじゃないのか。政治的といえば、いちばん政治的なところにいたようにおもう。

 『ビリー・ワイルダー自作自伝』がおそろしくぶ厚い本になったのは(二段組みで、617ページある。あとは訳者あとがきが少し)、この本を書いているヘルムート・カラゼクがビリー・ワイルダーのファンであり深い敬意をもっているからだろう。ヘルムート・カラゼクはビリー・ワイルダーのことをなるべくもれなく、多くのことを書きたかったんだ。ビリー・ワイルダーはこの男ならちゃんとした本になるとわかっていたんだ。たぶん『ビリー・ワイルダー自作自伝』はビリー・ワイルダーの最高の伝記になっている。

 つぎもなるべく明るい本を、図書館から借りるときは選ぼうと、読み終わったときおもった。なんて長い本だったのだろうともおもったけれど。

2015年9月19日 (土)

近所の風景

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 朝の散歩中。

2015年9月18日 (金)

新しい靴で歩く

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 いままで履いていた靴で雨のなかに出ると、すこし水がはいりこんでくるようになった。どこかに小さい破れがあるのだ。そういうわけで新しい靴を買おうと思った。ようやく靴というのは体にとって重要なものだということがわかるようになったので、どういう靴をえらぼうか、どういう靴に出会えるのかと、けっこうワクワクして買いに行った。

 それで、靴を買うならこの店にしようと決めていたところへ行ったのだけれど、希望するような、この靴がいいというようなものは店に置いてなかった。このサイズの、このタイプのものというのがなかった。

 それでも、いままで靴をさがしていろんな店を歩いた経験から、この店で買ってしまったほうがいいと思った。それに「今靴を買いたかった」。ここにあるものから一番いいものを選ぼうと思った。

 で買ったのが、ナイキの靴で、横幅はすこしせまいかなと思ったが、まあいけるだろうと思って買った。

 靴ひもは靴に足を入れてから通し、結んだ。

 で、大丈夫みたいだ。軽い。横幅はたしかにせまいのだが、足にぴたりと当たってはいるのだが、いくら歩いても痛くならない。当たっているところが柔らかくふくらむのだ。ただ今までの靴ほどの寿命はないだろうと思う。

 つぎもこのタイプの靴にしようかと思ったりしている。もうすこしだけ微妙に横幅があったほうがいいようにおもうが、それともこれはもうこれでいいんだろうか。

2015年9月17日 (木)

雨が上がったあとの空

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 目がすいよせられた。

2015年9月16日 (水)

雨の日の風景

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 散歩中。

2015年9月15日 (火)

近所の風景

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 思いがけない所に店があった。

2015年9月11日 (金)

「エデンの東」を観に行く

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 ものすごくいい映画だった。テレビやビデオで何回か観ているが、その印象とはまったくちがう映画だ。ジェームス・ディーンの映画ではない。エリア・カザンの映画だ。

 骨組みのしっかりしている映画だ。ふたごの兄弟アロン(リチャード・ダヴァロス)とキャル(ジェームス・ディーン)と父親(レイモンド・マッセイ)。家を出ていった母親(ジョー・ヴァン・フリート)。アロンのやさしい恋人(ジュリー・ハリス)。これらの人々が織りなす愛と憎しみ、結びつきといさかい。人間の骨格が描かれている。

 ジェームス・ディーンの映画ではないといったが、ジェームス・ディーンはこの映画ではなくてはならない俳優となっている。愛されないため、いじけて歪んだ性格の持ち主となってしまったキャルを見事に造型している。おそらく監督のエリア・カザンの期待以上だったにちがいない。これが映画初出演のはずだから、すごい俳優だ。ジェームス・ディーンの登場はやはりショックだったろう。

 脳卒中でたおれ、満足に口もきけなくなった父親とキャルは最後に和解するのだが、それでキャルの性格は浄化され、正しい人になったかというとそうではない。キャルはおそらく変わらない人間として描かれている。ジェームス・ディーンの演じたキャルはその繊細さ、内面性を語られることが多いが、そうではない。傷つきやすくて、いじけやすくはあるのだが、同時に頭がよくて、タフで、金儲けもでき、傷つけられれば相手を思いっきり傷つけ返すこともできる人間なのだ。映画ではそう描かれている。これはジェームス・ディーンでなければ演じきれない人間だった。

 物語としても弟キャルは兄アロンを争いの末、戦場へと追いやり、その恋人アブラを奪いとってしまうような結果になっている。これで終わりというような話ではない。

 この「かんたんには浄化することのない人間」キャルを描くことによって、この映画は太い骨格をもった映画になっている。人間ってこんなもんかもしれないなと思った。

 映画館で観てみるものだ。『刑事ジョン・ブック 目撃者』もテレビで観たのとまったくちがう印象を映画館でうけて衝撃だったが、それ以来という感じだ。観終わったあとの感じはとてもいい。

2015年9月10日 (木)

マイルス・デイビス

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 マイルス・デイビスのこれ、『Doo Bop』というアルバム、意外によかった。軽快で、そしてリズムがいい。

 『ドゥー・バップ』と読むらしい。

 

2015年9月 9日 (水)

公園を歩くカラス

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 近くの公園で。

2015年9月 5日 (土)

「心的現象論序説」を読み返す

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 長く難解で哲学的なものというのはアレルギー的に避けてきたが、長い時間を経て、また読みたくなった。

 そういう本を読んでよく飲み込めるとはいえないが、そういう頭の使い方をしたくなっているのだ。そういう刺激を頭が欲しがっている。

 吉本隆明の『心的現象論序説』はそういうことにぴったりの本といえる。これを読んでなにか身につくことがあるんだろうかと思うが、晩飯のあと、テレビを見ていたりすると、この難しい本を読みたくなったりすることがあるのだ。身体がそういう欲求をしている。

 そして何十年か前にぼくはこの本を読んでいるのだ。熱心に読んだはずだ。何も残っていないような、基本的なことだけを覚えているふうだが、それでも難しい本を読みたいという頭の生理的な欲求以外にもぼくをこの本に向かわせるものがある。

 まえ熱心に読んだときに<残ったまま>になっている思い、知識や考え方に新しく風を通らせたいということがある。いまの自分によって、修正や訂正や変更を、そのときに飲みこんでいる思いこみや信じ込みに新しい風を通らせたいのだ。そういう思いがある。

 今度この本を読みだしてからずっとぼくをとらえていることがある。心的な現われはすべて身体に還元できるのかということだ。逆流できるのか。このことの関心は一貫してぼくのなかにある。そして吉本隆明は一貫して心的なあらわれをすべて身体に還元するということはできないのだと言う。

 「ただ、いままでの考察に取柄があるとすれば、心的な世界を、人間の生理現象にも、現実環界にも還元しえない不可避な領域としてあつかってきたことである。このかんがえはこれからも固執するに価するとかんがえられる。」

 この論考は1965年から1969年にわたって発表された文章だけれども、そういう見方をとる。

2015年9月 4日 (金)

木の表情

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 朝の散歩中。

2015年9月 3日 (木)

近所の風景

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 散歩中。

2015年9月 2日 (水)

けっこうよく見た「世界陸上」

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 けっこうよく見た「世界陸上」。人間の身体が躍動しているのをみていると、なんとなく元気になる。

2015年9月 1日 (火)

街灯の柱にとまっているセミ

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 朝の散歩中。

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