「ナイトクローラー」
すごいといえばすごい。金融資本主義の社会にはまった男を演じるジェイク・ギレンホールは怪演にして好演。いまのアメリカを代表する俳優だろう。
救いもカタルシスもないが、監督で脚本も書いているダン・ギルロイのひく一本のためらいのない高速の線がカタルシスといえばカタルシス。
宣伝では全米興行収入第一位とあった。だとしたらこの映画をヒット作にするアメリカというのは面白い国だなとも思った。
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すごいといえばすごい。金融資本主義の社会にはまった男を演じるジェイク・ギレンホールは怪演にして好演。いまのアメリカを代表する俳優だろう。
救いもカタルシスもないが、監督で脚本も書いているダン・ギルロイのひく一本のためらいのない高速の線がカタルシスといえばカタルシス。
宣伝では全米興行収入第一位とあった。だとしたらこの映画をヒット作にするアメリカというのは面白い国だなとも思った。
地元のお祭り。
キャロル・キングは音楽雑誌で読んだエピソードが印象にのこっていて、そのエピソードから彼女の人柄と考え方を想像していて、魅力的な人だとおもっていた。ぼくの好きな「ウィル・ユー・ラブ・ミー・トゥモロー」の作曲者でもあるし、歌ってもいる。そしてとてもいいアルバムだった『つづれおり』はぼくもまた聴いていて、覚えている。そんなわけでちょっと期待して読みだしたのだが、ここでの彼女は、つまりキャロル・キングが書く彼女自身のこと、つまりキャロル・キングが語る彼女自身は優等生的で、よい子だ。硬いのだ。意外に硬い。ある振り幅からでてこない。
そこが不満だった。いったいあのキャロル・キングはどうしたんだとおもいながら読んでいたが、第二部からはすこしちがってくる。やわらか味がでてきて、思慮深さもでてくる。
どっちにしたって彼女が語る彼女自身というのがいちばん確かではあるのだろう。58歳から70歳までの時間をかけて書いたキャロル・キングの自伝である。
やがてアメリカの都市文明からはなれていき、ロッキー山脈にある州で本格的に山暮らしというのか、自給自足的な生活を子どもたちと始めるキャロル・キングに出会うことになる。
ニューヨークで生まれ育ったキャロル・キングはなぜか、電気、水道がなく、ネズミがはいまわるような徹底した田舎暮らしに強く惹かれるのだ。読んでいて理屈でうごいているわけではなく、体感的に、本能的にそういった生活に、環境にひかれてうごいている。(もうこれからずっと田舎暮らしだなと思って読んでいると、意外にもこの山の暮らしから気持ちのうえではなれていってしまうし、じっさいの生活も、山暮らしから都会での音楽活動へと中心を移していく。このへんの心の動きは説明が足りないぜ)。
とても読みやすい本ではあって、リラックスはできた。
たいした女性だとも思う。彼女の移り住んだアイダホ州の山の近所の住人たちとやがて土地の通行権の問題で争うことになり、裁判になる。郡当局とご近所を相手にして戦いもするのだ。
キャロル・キングは音楽から距離をとった時期があるとしても、音楽を捨てることのなかった人でもあって、彼女の記す50年代の社会のなかの音楽の動き。60年代、70年代、80年代、90年代のアメリカの音楽の世界の、その音楽の世界に住む住人たちのエピソードなんかはとても興味深いのだ。
祖父母の話から始まる彼女のぶ厚い自叙伝はいま現在にまで延びていて、じつに2001年のアメリカ同時多発テロのこと、2011年の日本の東日本大震災のことも語られている。
じっさい面白い、読むのをやめられなくなる章もあったが、選挙にでも出るつもりなんだろうかといいたいほど、とつぜん視線を変えて、<立派な>ことばかり書いている章もある。自伝というものを文学的な統一感でくくらなくてもいいと彼女はかんがえている。そうは考えていたけど、どうしてもいいたいことがある、ということなんだろう。
この長い、半世紀以上の時間をたどってきた自叙伝はキャロル・キングが音楽という場をあらためて発見する章で終わらせている。訳は松田ようこ。
福山駅の駅前は立派というかにぎやかなのだ。ぼくが歩いた限りではシャッター街というところはなかった。
去年岡山にイオンができて、そのすさまじい集客力は倉敷イオンでよく知っているので、岡山駅前がどうなったのかわからないが、それまでは福山駅前は岡山駅前や倉敷駅前にくらべてはるかににぎわっていた。例外的な感じさえした。
ぼくの目は古びたもの、さびれたもの、朽ちかけたもの、廃墟に向かっているもの、赤茶けたものに惹かれてしまうので、そういうにぎわった写真は撮れてないのだが、それでも楽しめそうな大きな街だと思いながら歩いたのだ。
帰ったとき、駅からタクシーに乗って帰ることが多いのだが、帰りの新幹線でも、岡山から乗り換える在来線でも冷房がバンバンに効いていて、身体が冷え切ってしまっていた。これは汗をかいたほうがいいなと考えて、笠岡駅から歩こうと思っていた。しかし笠岡駅の一つか二つくらい前の駅から地面が濡れだした。傘をさして歩いているひとがいる。
雨がふりだしたのだ。どうする。30分以上は歩く。どうしよう。しかしやはり汗をかいたほうがいい。身体は冷え切っている。というわけで駅のコンビニで傘を買った。そして歩いて帰ったのだ。
写真は頭に留まるものではなく、心に留まるものでもなく、目に留まるものを写そうとおもった。そう心がけて撮った。
コーヒーを飲んだ帰り。
あたらしい散歩道で撮る。
古い家を撮る。
散歩中。
完全な外れだった。こんなにつまらない映画はひさしぶりに観た。
1956年の映画ではあるが、王室の家庭教師としてシャム王国にやってきたデボラ・カーの植民地主義的とでもいうほかないアジア人蔑視の立ち振る舞いはどうしてもひっかかる。これがひっかからない観客っていないんじゃないか。
しかもデボラ・カーの絶対的な上から目線というのは、<私は・・・・>という個人からのものではない。<私は英国人>というところからきているのだ。だから余計に傲慢にみえてしまう。そしてデボラ・カーがよく演じているというか、ぴったりなんだ。
映画の作りからしてこの<絶対的な上から目線>が物語では必要不可欠なものになっているので、むずかしい。あと何十年かしたら、古典的な物語として観れるようになるんだろうか。
『王様と私』はユル・ブリンナーの映画といえる。ユル・ブリンナーの魅力ははっきりでている。
散歩中に撮った風景。
小林信彦の文庫本『映画が目にしみる』を読み終わった。
淀川長治のあとをつぐのは小林信彦なんだなとおもった。映画評論の名手という感じ。
一つひとつのながさが喫茶店などでホッとしたいとき読むのに最適だ。じつにあっている。
なまぬるいというか興行のためまとめあげたという印象が残ったクリント・イーストウッドの『ミリオンダラー・ベイビー』の評価などなっとくのいかないものも2、3あったが、それでも読んでいるあいだくつろいでいられる本だった。
日中エアコンをつかおうかどうか迷っている。
夜ねるときはおやすみタイマーをかけてエアコンをつかっているのだが、昼間はまだつかっていない。じぶんの部屋にいるときはそうしている。夏、冷房をつかわないことに、身体はなれているはずなのに、ことしはきつい。
温湿度計をみているとだいたいが温度33℃~34℃、湿度50%~60%という状態がおおい。窓は開けていて、風はたしかに通るのだが、きつい。
体力の消耗がエアコンをつかっているときよりもはげしいのではないかと考えてしまう。どうなんだろう。
というわけで昼間、じぶんの部屋にいるとき、エアコンをつかおうか、つかうまいか迷っている。今日はまだつかっていない。
①日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果とわが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令、詔勅を排除する。
いわゆる憲法の前文というものの①②③④のうちの①の部分を写してみた。いままでまったく読んだことがないということはないだろうと思う。一回くらいはどこかで読んでいるはずだが、いつころ読んだのか思いだせない。自発的に読んだというのは、これがもしかしたら初めてかもいしれない。
藤原新也なんかでも改憲ということは言っているので、いろいろあるのかもしれないが、読んでみてこの<憲法>をいま変えなければならないとは思わないな。文章もとくに悪いとはおもわない。おもうとすれば立派すぎるということだが、これは「最高規範」ということだから、「憲法」だから、妙に現実的なものよりも、こういう立派といえば立派なもののほうがいいかもしれない。
あくまでも「考え」が問題になるのであって、いま変えなければならない「考え」があるとは思わないな。
なんかアイスコーヒーにミルクをいれたときの落ちていくさまがものすごいようで、おもわず写真に撮った。
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