芹沢俊介「子どもたちはなぜ暴力に走るのか」を読む
ずっと芹沢俊介の書いたものを読んできたけれど、この『子どもたちはなぜ暴力に走るのか』でいちおう終わりになる。
『子どもたちの生と死』、『子ども問題』、『「いじめ」が終わるとき』と読んできて、けっこうきつかった。ちょうど職場での問題というものが起こったときと重なるようになってしまったので、芹沢俊介の緊張感あふれる、緊張度のつよい文章がこたえてしまったときもあった。しかし芹沢俊介の書いたものにふれることは今のぼくには重要なことだという思いがはっきりとあったので、ひきずられるように読んできた。ここのところ読む書くことではぼくのなかではいちばん優先度の高いことだった。
80年代以降の社会はこうなっているのだということをはっきりと教えてもらったように思う。また具体的な思考の展開というものがすぐれた現実への認識を生むところをみた。
ぼくはいまの「いじめ」というものがこういうふうになっているとは知らなかった。こういうかたちをもつものだとは。
ぼくのガキのころ、子どものころとはちがうのだ。
『子どもたちはなぜ暴力に走るのか』は、これまで以上に強弱を振れるというよりもひたすら強度の峰だけをたどっているような文章できついが(芹沢俊介は写真などで見ると柔和というか、柔弱な感じさえする人だが相当タフなひとだ)、芹沢俊介は本来こういう文章が好きなんだろうし、それとともにいじめの現実が芹沢俊介を走らせているということがあるだろう。
『子どもたちはなぜ暴力に走るのか』は1998年に発行されており、強烈な時代への認識がしるされている。
子どもたちの起こす犯罪についてこう書かれている。
「だがここへきてそのように固有の物語へと還元して了解することができない出来事が急速に増えてきたのである。というより出来事の発生には固有の物語が不可欠であると考える、そういう思考の型そのものが廃棄処分を迫られているらしいのだ。」
おもわず絶句してうなったけれども、冷静に考えると、これはいくらなんでも走りすぎだと思える。しかしそれだけいままでの考えではとらえにくい出来事が行為がものすごくふえているということなんだろう。そしてその新しい考え方、見方でなければ、この社会の動き、変わりかたのすごさをあらわすことは難しいのだということなんだろう。
ほかに立ちどまり沈黙したところがあったので、それも書き記しておきたい。
「神戸の仮設住宅で餓死した男性や池袋のアパートで餓死した老母と息子にどこかで共感を覚えてやまないのは、私たちの内部の心のホームレス状況が反応しているからではないのか。重要なことはこの人たちが生を構築することの意欲を根っこから奪われたり、構築的に生きることにつくづく疲労してしまったりしていながら、その一方でなお制度(システム)の救済を退けうるほどに自尊的であることだ。自分の生の主人公であり続けたいという自尊感情はまた殴る思想の万世一系から自己を引きはがしえている理由ではないかと思えてくる。精神が決壊しても少しもおかしくはない事態にありながらそうならず、それどころか、かすかではあるけれど倫理が生まれようとしていることに驚きをおぼえるのである。」
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- ヘーゲル「哲学史講義Ⅰ」から(2023.05.29)
- アガサ・クリスティー「死が最後にやってくる」(訳 加島祥造)(2023.05.13)
- 「歩く」(2023.05.12)
- ヘーゲル「哲学史講義Ⅰ」から(2023.05.11)
- 奥野健男「日本文学史 近代から現代へ」読み終わる(2023.05.01)
コメント