北野丘のエッセイ
北野丘(詩を書くときは小野弘美の名をつかっている。なぜこんなめんどくさいことをしているのか、話してくれたような気がするがわすれてしまった)のエッセイがおもしろい。詩誌に載るエッセイにはめずらしい破天荒な感じでたのしませてくれる。
『感情』10号の「私の昭和歌謡時代(1)ーー『ひと夏の経験』」がそうで、一時おとなしくなって弾みがなくなっていたが、また前の調子がもどってきている。
<わたしの物語>あるいは<わたしだけの物語>に徹したほうが話はおもしろい。おもしろくなるのだ。
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北野丘(詩を書くときは小野弘美の名をつかっている。なぜこんなめんどくさいことをしているのか、話してくれたような気がするがわすれてしまった)のエッセイがおもしろい。詩誌に載るエッセイにはめずらしい破天荒な感じでたのしませてくれる。
『感情』10号の「私の昭和歌謡時代(1)ーー『ひと夏の経験』」がそうで、一時おとなしくなって弾みがなくなっていたが、また前の調子がもどってきている。
<わたしの物語>あるいは<わたしだけの物語>に徹したほうが話はおもしろい。おもしろくなるのだ。
葉が日を浴びて輝いていた。
ものすごい暑さだけれど、こんなときは冷たいものを食べるのではなく、むしろ熱いものがいいだろうと考えて、きのうの昼はアツアツのうどんを作って食べた。
汗がしっかり出たけれど、いやな感じではない。たしかに身体にはこのほうがいいだろうとおもった。
4、5日前から、あまりのむし暑さに寝るときエアコンを運転してから寝るようになった。タイマーは3時間半。
エアコンを使わないのにこしたことはないが、北側と南側の窓を開けて風が通らないときはどうにもならない。エアコンを運転して部屋を冷やすとよく眠れるのだ。朝起きたときの感じは、寝ているとき冷風を身体に受けたための、若干の体調不良感があるが、それでもやはり睡眠を優先すべきだろう。
朝起きたときにやる整体の感じをいえば、寝ていて腰は重くなっていない。これはエアコンをつけてもつけなくても同じ。腰は重くなっていないが、首は硬くなっている。
具体的にいえば腰椎3番は椅子やあぐらをかいて座っているときにくらべれば、まったく硬くなっていない。しかし前屈がきつい。そんな感じだ。
昼メシを外に食べに行ったあとの帰り道にあった自転車。
図書館のそばのグラウンド。
ずっと芹沢俊介の書いたものを読んできたけれど、この『子どもたちはなぜ暴力に走るのか』でいちおう終わりになる。
『子どもたちの生と死』、『子ども問題』、『「いじめ」が終わるとき』と読んできて、けっこうきつかった。ちょうど職場での問題というものが起こったときと重なるようになってしまったので、芹沢俊介の緊張感あふれる、緊張度のつよい文章がこたえてしまったときもあった。しかし芹沢俊介の書いたものにふれることは今のぼくには重要なことだという思いがはっきりとあったので、ひきずられるように読んできた。ここのところ読む書くことではぼくのなかではいちばん優先度の高いことだった。
80年代以降の社会はこうなっているのだということをはっきりと教えてもらったように思う。また具体的な思考の展開というものがすぐれた現実への認識を生むところをみた。
ぼくはいまの「いじめ」というものがこういうふうになっているとは知らなかった。こういうかたちをもつものだとは。
ぼくのガキのころ、子どものころとはちがうのだ。
『子どもたちはなぜ暴力に走るのか』は、これまで以上に強弱を振れるというよりもひたすら強度の峰だけをたどっているような文章できついが(芹沢俊介は写真などで見ると柔和というか、柔弱な感じさえする人だが相当タフなひとだ)、芹沢俊介は本来こういう文章が好きなんだろうし、それとともにいじめの現実が芹沢俊介を走らせているということがあるだろう。
『子どもたちはなぜ暴力に走るのか』は1998年に発行されており、強烈な時代への認識がしるされている。
子どもたちの起こす犯罪についてこう書かれている。
「だがここへきてそのように固有の物語へと還元して了解することができない出来事が急速に増えてきたのである。というより出来事の発生には固有の物語が不可欠であると考える、そういう思考の型そのものが廃棄処分を迫られているらしいのだ。」
おもわず絶句してうなったけれども、冷静に考えると、これはいくらなんでも走りすぎだと思える。しかしそれだけいままでの考えではとらえにくい出来事が行為がものすごくふえているということなんだろう。そしてその新しい考え方、見方でなければ、この社会の動き、変わりかたのすごさをあらわすことは難しいのだということなんだろう。
ほかに立ちどまり沈黙したところがあったので、それも書き記しておきたい。
「神戸の仮設住宅で餓死した男性や池袋のアパートで餓死した老母と息子にどこかで共感を覚えてやまないのは、私たちの内部の心のホームレス状況が反応しているからではないのか。重要なことはこの人たちが生を構築することの意欲を根っこから奪われたり、構築的に生きることにつくづく疲労してしまったりしていながら、その一方でなお制度(システム)の救済を退けうるほどに自尊的であることだ。自分の生の主人公であり続けたいという自尊感情はまた殴る思想の万世一系から自己を引きはがしえている理由ではないかと思えてくる。精神が決壊しても少しもおかしくはない事態にありながらそうならず、それどころか、かすかではあるけれど倫理が生まれようとしていることに驚きをおぼえるのである。」
駅前のちいさな店。
観に行くつもりだった『風と共に去りぬ』は観に行くことができなかった。
時間がなかった。休みの日のエネルギーは読みつつある芹沢俊介の『子どもたちはなぜ暴力に走るのか』についやされてしまっている。
凝縮度の高い芹沢俊介の文章は読みすすめていくと呼吸が浅くなっていくと思われるほど強く、ひんぱんに休みをいれないと読めない。きついものを読むことになってしまったなと思うが、これは流れからして読んでおきたい。
というわけで図書館の借りていられる期間の4週間では読むことができず、延長してもらった。
『風と共に去りぬ』はもう一度おおきなスクリーンで観てもいいと思っていた映画だ。たぶん満足できたはずだ。次の機会を待とう。
雨の中の散歩。
散歩中。
郵便局の前に置いてあった鉢。
『アラビアのロレンス』の風景のおおきさと美しさに沈黙させられたデヴィッド・リーン監督の作品だから観に行ったわけだけれど、良い映画だった。傑作。よいものを観せてもらった。
『アラビアのロレンス』は第二部でくずれてしまったが、『ライアンの娘』も休憩をはさんでの第二部であやしくなりだしたものの、もちこたえて見ごたえのある映画になっている。ぼくの生涯の映画ベストテンに入れたいくらいの映画だ。よく出来ている。
アイルランドの海辺の村の娘ロージー(サラ・マイルズ)はかつての学校の先生だったチャールズ(ロバート・ミッチャム)に恋して、あこがれて、求愛するような形で結婚するが、求めて得た生活なのだが、何かどうしても、埋められないものがあると感じている。満ちた静かな気持ちが来ない。結婚生活に落ち着くことができない。
このサラ・マイルズ演じるロージーという女性は世紀の精神を体現するような女性だと思った。何かを求めてやまない精神。やってきた近代のあけぼのを体現するような、象徴するような人間、女性だと思った。
そのロージーが出会うのはアイルランドを支配する英国の将校ドリアン少佐(クリストファー・ジョーンズ)。アイルランドの独立運動がつぶされた後、駐留する英国軍の将校だ。のっけからえらくかっこいい。立ち姿がいい。おまけに戦場で負傷して足をひきずって歩く。
この英国の将校を演じるクリストファー・ジョーンズというのは第二のジェームス・ディーンといわれたアメリカの俳優で、たしかにジェームス・ディーンに似ているなと思わせる。細身のからだで軍服が似合う。
デヴィッド・リーン監督の撮る、描きだす自然というものは特別なものがあって、美しく鮮烈だ。そこにたしかに大きなものがあるという感じだ。風景というものに格別の関心と感覚をもつ巨匠だと思う。
厳しい自然を生きる、自然の中を、自然にむかって生きるひとりの人間の内面というのだとデヴィッド・リーン監督の力量と資質が生きるけれども、人間同士の葛藤のドラマというのは不得手のようで映画がちいさくなる。『アラビアのロレンス』の、第二部ではせっかくのすばらしい大きな映像の印象が薄くなってしまうのだが、この『ライアンの娘』でもアイルランド独立運動の闘士たちがからんでくる集団の人間同士のドラマというところはこじんまりした印象になる。しかし原作がいいのだろう(原作はあると思った)、もちこたえて、建て直して作りあげている。調べてみると原作というものは存在してなくてオリジナル脚本というから、すごくしっかりした脚本だ。
おかげでいい一日になったと思う。こういうことがあると運をかんじるな。
それで最後はある観念的ともいえるものの象徴ともおもわせたロージーは村を去ることになるのだが、彼女は自分の身の丈にあった現実をつかみとろうとするようにも思える終わりかただ。
サラ・マイルズ、ロバート・ミッチャム、クリストファー・ジョーンズ、骨太で血のあたたかい神父を演じるトレヴァー・ハワード(『第三の男』にも出ていた)、村のバカを演じるジョン・ミルズもそれぞれ持ち味をだしている。形のいい終わりかただ。
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