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2015年6月28日 (日)

芹沢俊介「『いじめ』が終わるとき 根本的解決への提言」

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 芹沢俊介は<根本的解決への提言>という副題をもつこの本のなかで「いじめ」というものをこう定義している。

 「『いじめ』は、標的を分離・特定化することからはじまる。標的を分離したことによって同時にそこに特異な構造をもった『いじめ』の参加者集団すなわち集団身体が形成される。

 したがって『いじめ』の参加者たちはそのまま集団身体の一員であり、集団身体に一体化している自分を見出すことになる。そのようなかたちで『みんな』のなかにいる自分を感じることができるのである。」

 集団身体というのは、前は芹沢俊介は集団的身体といういい方をしていたけれども、要するに個人の、個別の、個の、その人だけのものである身体、心身とは対極にある集団的な身体という意味である。

 読んでいてなるほどなあと思う。「いじめ」というのは今こういうことになっているのかと思う。よくわかる納得できる定義だとおもう。

 強い印象だ。大変な問題がここにあると思う。いじめというものの恐ろしさに身体が硬くなる。

 読んでいてこんないじめをやられたらとても持たないなと思う。おれはもたないし、誰ももたないだろう。いじめる側はいじめられている人間を放さない。ある一定の距離より離れることをゆるさない。じぶんたちのエリアの外に出て行かさない。円のなかのゲームだ。そういういじめる対象が存在してこその仲間だという。いじめになる人間を存在させて、皆と同じであることを確認する。安心する。それが<集団身体>だという。

 「それはいじめる側が標的を決して放置しないこと、一人にしないこと、自由にしないことである。無視という暴力は無関心とは異なる。標的にいつでも自分が無視されていることを意識させておく暴力の形が無視なのである。しばしば『生きていくにはつらすぎる』『もう疲れた』『つくづくいやになった』『もう耐えられない』といった言葉が残されているのは、『いじめ』が標的に据えた人間を決して放置しないこと、一人にしないこと、自由にしないことが語られているのである。」

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