« 2015年5月 | トップページ | 2015年7月 »

2015年6月

2015年6月29日 (月)

「ひょうたん」56号

Cimg5696

 『ひょうたん』56号ができました。宅配便で送られてきたダンボールの箱を開けるときは、やはりうれしい。

 今号はぼくは、「リアルな3月」という詩を書いています。

 56号に書いているのは、

 水嶋きょうこ、後藤順、村野美優、君野隆久、森ミキエ、阿蘇豊、岡島弘子、小原宏延、布村浩一、絹川早苗、中口秀樹、小林弘明、相沢育男、柏木義高、睦ゆみこです。

 発行所はひょうたん倶楽部。編集/制作・相沢育男。装画・相沢律子。定価400円。

 じぶんの担当というか、じぶんの送っているぶんは、いままではクロネコメール便で、すぐに一斉に送っていたんですが、そのメール便が廃止、次のDM便というのもまだどういうものかよくわからないということで、今回はふつうの郵便で送るつもりです。

 ちょっとゆっくりと送っていこうとも思っています。

2015年6月28日 (日)

芹沢俊介「『いじめ』が終わるとき 根本的解決への提言」

Cimg5646

 芹沢俊介は<根本的解決への提言>という副題をもつこの本のなかで「いじめ」というものをこう定義している。

 「『いじめ』は、標的を分離・特定化することからはじまる。標的を分離したことによって同時にそこに特異な構造をもった『いじめ』の参加者集団すなわち集団身体が形成される。

 したがって『いじめ』の参加者たちはそのまま集団身体の一員であり、集団身体に一体化している自分を見出すことになる。そのようなかたちで『みんな』のなかにいる自分を感じることができるのである。」

 集団身体というのは、前は芹沢俊介は集団的身体といういい方をしていたけれども、要するに個人の、個別の、個の、その人だけのものである身体、心身とは対極にある集団的な身体という意味である。

 読んでいてなるほどなあと思う。「いじめ」というのは今こういうことになっているのかと思う。よくわかる納得できる定義だとおもう。

 強い印象だ。大変な問題がここにあると思う。いじめというものの恐ろしさに身体が硬くなる。

 読んでいてこんないじめをやられたらとても持たないなと思う。おれはもたないし、誰ももたないだろう。いじめる側はいじめられている人間を放さない。ある一定の距離より離れることをゆるさない。じぶんたちのエリアの外に出て行かさない。円のなかのゲームだ。そういういじめる対象が存在してこその仲間だという。いじめになる人間を存在させて、皆と同じであることを確認する。安心する。それが<集団身体>だという。

 「それはいじめる側が標的を決して放置しないこと、一人にしないこと、自由にしないことである。無視という暴力は無関心とは異なる。標的にいつでも自分が無視されていることを意識させておく暴力の形が無視なのである。しばしば『生きていくにはつらすぎる』『もう疲れた』『つくづくいやになった』『もう耐えられない』といった言葉が残されているのは、『いじめ』が標的に据えた人間を決して放置しないこと、一人にしないこと、自由にしないことが語られているのである。」

2015年6月25日 (木)

Cimg5674

 散歩の途中でみかけた花。

2015年6月22日 (月)

よしもとばななが吉本ばななになっていた

Cimg5685

 よしもとばななのホームページに行ってみたら、「よしもとばなな」が「吉本ばなな」になっていた。

 理由は想像できそうな気もするけれど(本人がホームページでそれとなくふれていた)、とにかく一周してきたというか、もとに戻ったわけだ。

 一時というか、かなり長いあいだ、いろいろ苦しかったころ、「よしもとばなな」のホームページに毎日のように行って、日記だかノートだかを読んでいた。マイナスになると読みたくなる人だ。文体があたたかい。血が濃い文体というか。厚切りばななというか。

 正月だかお盆のころか、去年だったか。田舎のかなり大きい本屋の棚に「村上龍」と「よしもとばなな」の本が置いてなくて、偶然だったのか、何か理由があるのか考えたことがある。

2015年6月21日 (日)

ゴキブリ対策

Cimg5660

 前は「ごきぶりホイホイ」という箱のなかにある粘着シートにゴキブリをひっつけて、ゴキブリを動けなくしてしまうものをつかっていたけれど、いまはこれ。「コンバット」といって銀色のちいさな容器が12個くらい入っていて、これをゴキブリが通りそうな所に置く。これは効く。

 容器のなかにあるものをゴキブリが食べて、巣に帰ったときそのゴキブリがするフンで巣が全滅してしまうらしい。全滅かどうかわからないけれど、効く。前「ごきぶりホイホイ」のときは結構ゴキブリをみかけていたけれど、「コンバット」を置いてからは、完全ではないけど、ほとんど見かけない。

 製品の宣伝のようになっちゃうけれど、寝ているとき、なんか身体の上を軽くやわらかいけれど動いているものがあって、手で払って、起き上がって蛍光灯を点けてみるとゴキブリだったということがあるわけで、そうなると気になって、もうそのゴキブリをたたきつぶすまで眠れなくなるということがある。いまはだいたいそういうことがなくなって重宝しているわけです。

2015年6月18日 (木)

あじさい

Cimg5672

 あじさいには目をうばわれる。

2015年6月14日 (日)

「ひまわり」を観に行く

Cimg5664_2

 『ひまわり』を観に行った。

 クラソーな感じがして、及び腰だったけれど、上映中の映画で観に行ってもいいと思ったのは、これしかなかった。

 気分転換のため映画を観たかった。

 1970年の映画で、監督はヴィットリオ・デ・シーカ。出演はソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ、リュドミュラ・サベーリエワとそうそうたる顔ぶれ。期待はした。しかし生彩のない映画だった。

 「新・午前十時の映画祭」というプログラムのなかの作品の一つで、「デジタルで甦る永遠の名作」という副題がついているけれども、名作というにはちょっと無理がある。この「午前十時の映画祭」というシリーズははずれのあんまりない催しなんだが。

 『戦争と平和』のナターシャが鮮烈な印象のリュドミュラ・サベーリエワも、どうなったんだろう、その後どうなったんだろうと思いながら観ていたけれども、上手い俳優になったんだなとは思うけれど、次第に型どおりの演技なんだなという印象をもってしまう。

 いいとこ挙げれば、画面いっぱいのひまわり畑が美しかったことと、バックにながれる映画音楽の最初のころのメロディラインがよかったことぐらいかな。でも気分転換になった。

 このとおりなら戦争の悲劇というほかないけれど、観ていてずっとひっかかっていたのは、第二次世界大戦中ソ連に攻め込んだイタリア兵のひとりで、敗残兵であるマルチェロ・マストロヤンニがどうして殺されもせず、収容所にぶちこまれたという風でもなく、ロシア娘のリュドミュラ・サベーリエワと結婚して、子どもまでつくっているのか、そんなことありうるんだろうかと思ってしまう。スターリンのソビエトだぜ。まあいろいろな経路でそうなっているのかもしれないが。

 話としては第二次世界大戦中イタリア人の夫婦マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンはケンカしながらも仲むつまじく暮らしていたが、病気のふりをして部隊に帰ろうとしなかったことがバレて、マストロヤンニは激戦のロシア戦線に送られてしまう。

 戦争が終わっても帰ってこないマストロヤンニだが、生きていることを確信する妻ソフィア・ローレンはソ連にマストロヤンニをたった一人でさがしに行く。探しまわってやっとのことで夫マストロヤンニの居場所をみつけるのだが、そこで夫はマーシャ(リュドミュラ・サベーリエワ)というロシア女性と生活をともにしていたというような話。

 マストロヤンニのためにすこし言えば、マストロヤンニは敗れ退却する戦場の苛酷さと雪の原野で死ぬ寸前までいったショックで記憶を失ってしまっているのだ。

 この日の映画館は(感動してしまうのが情けないが)不思議なことにバリボリ菓子を食うバカがいなかった。そういう音がまったくしなかった。おかげで集中はできたのだ。

2015年6月11日 (木)

風景

Cimg5642

 図書館の前の庭から。
 

2015年6月 8日 (月)

近所の風景

Cimg5637

 大きなダンボール。

2015年6月 4日 (木)

書評書きました

Cimg5636

 『季刊 詩的現代』13号に樋口武二さんの詩集『ものがたり あるいは、ゆらめく風景』の書評を書いています。

 樋口武二さんの『ものがたり あるいは、ゆらめく風景』は一編おもに4、5行の行分け詩からなり、それが1から160までつづくという連続詩とでも呼びたいような、独特のスタイルをもった詩集です。かなり緊張して書評書きました。

« 2015年5月 | トップページ | 2015年7月 »