芹沢俊介「子どもたちの生と死」を読む
サミュエル・ハンチントンの『分断されるアメリカ』がはずれで、まったくつまらなくて、がっかりして途中でやめてしまったが(裏表紙のサミュエル・ハンチントンのなんとも貧相などう表現していいかわからないような顔写真を何度もくりかえし見て、この男はいったいどういう男なのかとずいぶん考えたが)、芹沢俊介のこの『子どもたちの生と死』はいい。書いている世界がハンチントンとちがうのだが、立ち位置もちがうのだが、芹沢俊介のほうがはるかに真摯に対象にむかって思考している。どうせならいい本を読みたい。
ぼくにとっては吉本隆明の影響からオリジナルなところに向きを変えるには、吉本隆明の影響から自在なところに行くには、あいだに芹沢俊介を置くといいかもしれないと思った。世代が近い分だけ芹沢俊介のいっていることが、近くに見えるような気がする。
『子どもたちの生と死』は1998年に出されていて、この部屋のどこに置いてあるか今わからなくて本のタイトル名がはっきりしないが「イエスの方舟」について書いた頃の本よりも読みやすく、飲みこみやすい文章だとおもう。これはおもしろい、ぼくにとってとてもためになる本だなという気がする。芹沢俊介の思考が、時代の人間と社会への思考が、みずみずしく新鮮に、こういう見かたをするのかとおどろきをもって入ってくる。
おどろくべきことに芹沢俊介は「体」というものに着想している。どこで気がついたんだろう。思想家としてはこんなふうに「体」というものに気づいた人間はいないんじゃないか。
「個別性を否定するときの基準となるのを、集団的な体、集団的な身体と呼んでいます。登校拒否についてはおもなところでは、集団的な体、集団的な身体という学校あるいは教室のもっているある種の強制力といいましょうか、そういうものに合わない、なじめない体が出てきたんだと考えるのがいいのではないか。そう考えると、登校拒否あるいは不登校というものをポジティブにとらえることができます。」
もうひとつ引用したいところがでてくる。映画館で、いわゆる芸術的で難解というような映画を観に行っても、そういうのを専門的にやっているような映画館でも、まわりの人間のことを考えずバリボリ菓子などを食べる20代、30代くらいの観客もでてきて、どういうことだろうとおもっていた。読んでいてなるほどなということを芹沢俊介が書いている。こういう流れだなということを書いている。
「それはあらゆる環境が母胎化しはじめているということです。その方向へ現実がどんどん進んでいるように思います。ヘッドフォンステレオなんかを例に取るのがいいでしょう。まわりの現実を全部シャットアウトして、自分だけの世界へ閉じこもることが可能な製品です。車ももちろんそうですし、携帯電話だってそうです。あらゆる商品が個人化の方向に向かっています。」
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