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2015年5月

2015年5月31日 (日)

芹沢俊介「子ども問題」

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 『子どもたちの生と死』につづいて『子ども問題』を読んでいる。

 本としてはこの『子ども問題』のほうが早い。1995年に出ている。1990年代前半あたりの論考が多くおさめられている。

 子どもたちが被害者になった事件、まだ大人とはいえない少年少女たちの起こした事件。それらから日本の社会への具体的な解き明かしの試みがなされている。

 1990年代の社会というのは、戦後というべきなのか、ぼくは80年代からの連続性の強い社会というイメージが強いのだが。

 どうもあたらしい今までとはちがうような事件が起こっている。どうしてこういう事件が起きるのか。どうしてこういうことをする少年少女たちがいるのか。その扉をたたこうとしている。

 刺激的な分析がなされていて、時代はこうなっていたのかと思うところがある。社会の成り行きが具体的な像として浮かびそうな感じもある。

 起こったこと、起こったものごとにそくしながら考えを、見方をまとめていく。そうしてある考えを提示する。起こったことから離れ切らないのが芹沢俊介のいいところだ。この本のいいところだ。

 『子ども問題』におさめられている論考のひとつ「鼻の社会政治学ーーある暴力論の試み」は鼻という身体の一部をめぐっての論考で、1982年に書かれていて、いまという時代になってしまっては正直とても読みにくいけれど、このころから身体というものへのひっかかり、関心が芹沢俊介にはじまっていることが分かる。

2015年5月28日 (木)

「HEART STATION」

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 宇多田ヒカルの歌をまた聴きだしていて、そのなかでよく聴いているのが「HEART STATION」という歌。

 ラジカセが故障していて、ユーチューブで聴くしかないのだが、画面のなかずらりと縦にならぶ宇多田ヒカルの歌のなかで、この歌を選ぶことが多い。

 親しみがもてるのか。いまいちばん距離感がちかくもてる歌なのか。

2015年5月25日 (月)

コーヒー

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 前はコーヒーとタバコの組み合わせだとガンになるとさかんに言われていたけれど、こんどはコーヒーはからだにいいということになった。

 唖然とするが、あれはいったい何だったのだろうとおもうが、コーヒー好きのぼくとすればわるいニュースではない。こころおきなくコーヒーが飲める。

 コーヒーが身体にいいとすれば、そのひとつはコーヒーには利尿作用があるからだろうとおもう。からだのなかの「毒」を、要らないものを外にだすという。

2015年5月24日 (日)

ジョン・コルトレーン「マイ・フェイバリット・シングス」

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 マイルス・デイビスの「ソー・ホワット」が繊細だけれども、光沢のあるひかりをもつ完成度の高い音楽だとすれば、ジョン・コルトレーンの「マイ・フェイバリット・シングス」はコルトレーンの手のあとが、へこみと盛り上がりの線がみえるような作品である。「ソー・ホワット」はぞくぞくし、「マイ・フェイバリット・シングス」は昂揚する。

2015年5月21日 (木)

B.B.キング死す

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 B.B.キングが死んだ。昔から聴いていて、「ザ・スリル・イズ・ゴーン」という曲が好きだった。

 ライブ映像はユーチューブにいっぱいあるけれど、最高の演奏は70年代(74年だったか、78年か)にアフリカでやったもの。これが最高。

2015年5月17日 (日)

「TOKYO風景」

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 5月13日の朝日新聞の朝刊に載っていた「TOKYO風景」という記事、ひさしぶりに新聞を読んで感動した。

 いつもはインタビューする側だろう木村俊介という人を、藤生京子という記者がインタビューしているのだが、木村俊介という人が言っていることがいい。

 「雑誌や書籍でインタビュアーの仕事を始めると、普通の人たちの話をもっと聞いてみたくなった。時代の状況にあえてあらがわず、現実と折り合いをつけながら、歯車として働くことの大切さもかみしめる。「冷静な奴隷」と僕が呼ぶ人たちです。わかりやすい浮沈がある成功物語とは違うところで、それぞれの人生を踏ん張って生きる無数の人たち。一人ひとりの頭の中は本当にいろいろな感情が織り合わさって、とてつもなく広々としている。」

 自分のことをサラリーマン根性がからだにも心にもしみついていると時どき思うことがあるので、こういうコトバに出会うと気持ちがしずかに流れていくような思いがする。

 木村俊介という人は『変人ーー埴谷雄高の肖像』という本をだしている人。インタビュアーという肩書。

2015年5月14日 (木)

唐組「透明人間」を観に行く

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 ここしばらくの唐組の舞台のなかでは強いアクセントというか強い線、強い段落を感じた。これは唐十郎とともに演出を担当している久保井研の新聞でのインタビュー記事のなかで、初演のかたちに戻したのだみたいなことをしゃべっていたので、その印象もあったのかもしれない。

 『透明人間』という舞台は何回か観ているように思う。何回か観ているはずだ。

 唐組・第55回公演『透明人間』。

 作=唐十郎。演出=久保井研+唐十郎。

 ところは新宿花園神社。

 パンフレットをみていると、演出では唐十郎のまえに久保井研の名前がついている。これは初めて見るような気がする。

 前回の公演『紙芝居の絵の町で』のときはいろいろあって自分の集中力が途中で切れてしまい、妙な気持ちで芝居の終わったあとの道を歩いたけれども、今回はそんなことはなくて、いわば身体を楽にして観ることができた。神社と相性がよかったりもするんだろうか。

 4時すぎくらいか、受付で前売り券を入場番号の書いてあるちいさな四角い硬紙に替え、神社をでて近くの喫茶店ルノワールに行く。

 いつもなら喫茶店にしばらくいたあと、紀伊国屋に行って本をながめたりするんだが、今回はうごく気にならず、ルノワールに一時間以上いた。

 受付でもらった『透明人間』のパンフレットのあいだにはさんであったほかの劇団のチラシなどをみて時間をつぶす。それと喫茶店にはいったときだけ読むことに決めてある文庫本をよむ。

 麿赤兒の大駱駝艦の舞踏のチラシ、唐組の怪優辻孝彦のほかの劇団への出演のチラシ、天井桟敷系の劇団のチラシなどがある。むかし、あたまをつるつるに剃っている人がいて、インパクトあった。あれは舞踏をやっている人たちだったんだなとおもう。インパクトあったけれど、いまは当たり前になってしまった。しかしあたまを剃る以上にインパクトのあるあたまってあるだろうかと考えたりする。

 5時半にルノワールをでて、コンビニでおにぎりとパンを買う。神社で空を見ながら立ち食いをする。

 すこし暗くなったころ開場の呼び声がかかる。神社という空間は落ち着く。おれの田舎は寺と神社だらけだった。そのせいもあるのかなあ。

 考えてみると唐組の芝居というのはにぎやかな舞台なんだなとおもったりする。つねに人が動き、つねに人がしゃべる。なぜ「透明人間」というタイトルなんだろうということも考えた。

 自在なかんじがしてきた役者久保井研がしゃべっている。そして辻孝彦、稲荷卓央、赤松由美、土屋真衣、気田睦、福本雄樹といったいつもの役者陣が立ち動く。職場にこういう人がいたらいじめられそうだなという藤井由紀の最後の水からあがってくるところのまなざしがとても美しく、小さくそそりたっていた。あれはリアリティがでる。

 芝居が終わったあと、神社にしばらくいた。そして夜の新宿を帰る。

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2015年5月11日 (月)

近所の風景

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 見なれているはずの風景に美しくたのしい変化があったりする。

2015年5月10日 (日)

芹沢俊介「子どもたちの生と死」を読む

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 サミュエル・ハンチントンの『分断されるアメリカ』がはずれで、まったくつまらなくて、がっかりして途中でやめてしまったが(裏表紙のサミュエル・ハンチントンのなんとも貧相などう表現していいかわからないような顔写真を何度もくりかえし見て、この男はいったいどういう男なのかとずいぶん考えたが)、芹沢俊介のこの『子どもたちの生と死』はいい。書いている世界がハンチントンとちがうのだが、立ち位置もちがうのだが、芹沢俊介のほうがはるかに真摯に対象にむかって思考している。どうせならいい本を読みたい。

 ぼくにとっては吉本隆明の影響からオリジナルなところに向きを変えるには、吉本隆明の影響から自在なところに行くには、あいだに芹沢俊介を置くといいかもしれないと思った。世代が近い分だけ芹沢俊介のいっていることが、近くに見えるような気がする。

 『子どもたちの生と死』は1998年に出されていて、この部屋のどこに置いてあるか今わからなくて本のタイトル名がはっきりしないが「イエスの方舟」について書いた頃の本よりも読みやすく、飲みこみやすい文章だとおもう。これはおもしろい、ぼくにとってとてもためになる本だなという気がする。芹沢俊介の思考が、時代の人間と社会への思考が、みずみずしく新鮮に、こういう見かたをするのかとおどろきをもって入ってくる。

 おどろくべきことに芹沢俊介は「体」というものに着想している。どこで気がついたんだろう。思想家としてはこんなふうに「体」というものに気づいた人間はいないんじゃないか。

 「個別性を否定するときの基準となるのを、集団的な体、集団的な身体と呼んでいます。登校拒否についてはおもなところでは、集団的な体、集団的な身体という学校あるいは教室のもっているある種の強制力といいましょうか、そういうものに合わない、なじめない体が出てきたんだと考えるのがいいのではないか。そう考えると、登校拒否あるいは不登校というものをポジティブにとらえることができます。」

 もうひとつ引用したいところがでてくる。映画館で、いわゆる芸術的で難解というような映画を観に行っても、そういうのを専門的にやっているような映画館でも、まわりの人間のことを考えずバリボリ菓子などを食べる20代、30代くらいの観客もでてきて、どういうことだろうとおもっていた。読んでいてなるほどなということを芹沢俊介が書いている。こういう流れだなということを書いている。

 「それはあらゆる環境が母胎化しはじめているということです。その方向へ現実がどんどん進んでいるように思います。ヘッドフォンステレオなんかを例に取るのがいいでしょう。まわりの現実を全部シャットアウトして、自分だけの世界へ閉じこもることが可能な製品です。車ももちろんそうですし、携帯電話だってそうです。あらゆる商品が個人化の方向に向かっています。」

2015年5月 6日 (水)

浅草へ

 この何年か、ゴールデンウィーク中に浅草に行き、雷門をくぐり、ものすごい人混みのなか、浅草寺にお参りをし、境内でコンビニで買ったおにぎりとパンをぱくつき、帰りに落語を聞くというのが恒例のようになっていて、今年もそうしたのだ。

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2015年5月 5日 (火)

駅の風景

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 よく使う駅の風景。

2015年5月 4日 (月)

上野へ

 連休初日、どこへ行こうか。どこかへ行きたい。上野だな。上野は東京国立博物館がある。国立西洋美術館もある。国立西洋美術館という感じだな。

 上野駅を出て、ものすごい人通りというか、人混みのなかを進み、国立西洋美術館が近づいてきた時点で、間違いなく混んでいるだろう企画展を避け、常設展のほうへはいることにした。

 それは当たりで、ゴールデンウィーク中なのにゆっくり観ることができたのだ。暗く輝いているような16世紀か、15世紀か、そのあたりのヨーロッパの絵がはいってきた。宗教画だったのかな、宗教画ではなかったように思う。あそこあたりの絵がよかった。

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2015年5月 3日 (日)

ゴールデンウィーク

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 今日から4連休。滅多にないことだから、さすがに開放感がある。

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