「神々のたそがれ」を観に行く
摩訶不思議で、退屈で、面白くなくて、そしてすごい映画だ。たぶんこの映画監督がいまいちばんすごい映画監督なんだろうと思ったが、家に帰ってチラシをみると遺作となっている。3時間ほどの映画。3時半から始まって(予告もあったが)、外にでてケイタイをみたら6時44分で、外は暗い。3時半から映画を観て、観終わったら外が暗いだなんて、なんていう映画だろう。
新聞の夕刊の映画批評でほめていたが、新聞の映画欄の批評はときどきはずれるのは体験済みで、気になりながらもそのままにしていた。が、糸井重里の『ほぼ日刊イトイ新聞』で、糸井重里が毎日書いているエッセイでこの映画に強烈な印象を与えられたことを波打つようにつづっていたので、行く気になった。ひじょうに期待した。
方法ははっきりしている。黒白のせまい画面空間を埋めつくすような人人人たち。男たち女たちは汚れている。泥をつけ、習慣のようにツバをはき、雨にぬれ、常に動く。その画面をよこぎるようにとおりすぎる者たちは、役者たちは瞬間カメラを直視する。
これを円舞のようにくり返す。様式のようにくりかえす。ずっーと決まり事のようにくりかえす。動き、つばを吐き、わめき、食べ、たたき、殴り、泥道を進む。そしてつばを吐く。
いったいこれは何だということになる。このこだわりは、この執着は、この粘着力は。これは何だ。
映画のはじめに「800年ほどおくれた世界」というナレーションがあったので、えーとこれは今から逆にたどっていくと中世の世界になるか、中世的汚さの世界だなというところまではイメージするが、なにが展開されているのかよくわからない。ただ猛烈に汚い。
この映画を作った人はいったい何をいいたいんだろう。何をしたいんだ。何を語りたいんだ。どうしたいんだと思いながら観ることになる。
しかしこの奇妙な、エネルギーに満ち満ちたくり返しがあるからこそ、この映画の主人公である神でもあり、帝国一の剣士でもあり、18代続いた栄誉ある貴族でもあるというルマータという男のほんの2、3回の数少ない独白が生きる。このつぶやきが鍵を解く。このつぶやきで、この寓意の映画で監督のアレクセイ・ゲルマンがなにを言いたいのかがわかる。
かなり決定的なことをしゃべらせてしまっているのだ。
インターネット上の公式サイトでひとつだけ調べたことがあって、ロシア人らしいアレクセイ・ゲルマンというひとはどこの時代のロシア人かということだけは調べた。アレクセイ・ゲルマンはソビエトの時代に生まれ、プーチンのロシアの時代に死んだ人だった。
ぼくの受けとった人間というものへの、人間の営みというものへの、人間の歴史というものへの諦念、深い深いためいきのようなものはまちがっていない。もうどうしょうもないぜという感じなのだ。
ずっーとせまい低い暗いきたない場所での映像だったが、最後の最後、ラストシーンでは広々とした場所での映像となる。主人公はクラリネットのような楽器を吹いている。ジャズのようにも聴こえる。
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