風景
図書館のそばにあるベンチ。
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図書館のそばにあるベンチ。
市議会選挙と市長選挙に行ってきた。大勢は決まっているような感じだけれども、これは現実に有効な政治意思の表明でもあるわけだから。
スーパーマーケットの入口あたりにつながれていた犬。
全身まっくろで表情がみえないと思ったが、真っ黒ではなく胸が白い。それとこの写真の大きさでわかるかどうか分からないが、不安そうな表情だ。
吉本隆明の書いたものは手元にあるものだけを読み返すことに決めていて、もう新しく買うことはしないつもりだったが、駅前の古本屋でついこの『吉本隆明のメディアを疑え』を買ってしまったのだ。しかしこれはよい本だった。
いま新聞やテレビとどう接すればいいのだろうと考えていたから、そのことが切実なことだったから、つい無意識に手が伸びてしまったのだろうと思うが、読んでいてやっぱり吉本隆明は別格の思想家だなと思った。すべてに同意するわけではないけれど、とても感心したのだ。
アメリカのアフガニスタンでの戦争についてこれほどきびしく批判しているとは思わなかった。肯定的とはいわないがもっとちがうような言い方をしていたと記憶しているのだが、勘違いかな。読み落としか。このころはもう吉本隆明の書いたものをすべて読むということはしていなかったので、こういう発言をしていたとは思わなかった。
阪神大震災のときの人々や企業のボランティア活動についてふれているところがあって、たとえばダイエーの中内功の対応を高く評価している。
「もうひとつは山口組でさえ食べものや必需品を無料で被災者に配布した。それなのに『ダイエー』は安価ではあっても販ったではないかという非難に、商業体が商品を販るのは当然で、もし商業体が無料で物品を分けたりしたら、市場原理を破り、市民の尊厳を無視することになり、追従するものが多くなったりしたら無秩序を助長することになると答えていた。これもなかなかの見識だとおもった。
どうしてかといえば、わが国の進歩思想は、資本主義以前的なことがあまりにもおおく、とうてい資本主義を超えることはできないとおもえるからだ。」
ここはおもしろいと思った。ずっと読んでくるとここで新しい社会のイメージがかいま見えるように思って興奮した。
ここには社会との新しい関わり方の可能性ということがあるんじゃないか。いま持つことのできない社会への能動性を、社会との新しいリンクの仕方の可能性ということがみえるようで気が高ぶった。
しかし資本主義以後の倫理というのはどういうものになるんだろう。そういうものはあるんだろうか。
ぼくたちを動かすものは、ぼくたちの血と肉と経験とぼくたちの体のなかにあるコトバとつながらなければならない。そうでなければぼくたちを動かすことはできない。思想ではダメなんだ。
2002年の本。いま読んでも充分にきく本。賞味期限内。
摩訶不思議で、退屈で、面白くなくて、そしてすごい映画だ。たぶんこの映画監督がいまいちばんすごい映画監督なんだろうと思ったが、家に帰ってチラシをみると遺作となっている。3時間ほどの映画。3時半から始まって(予告もあったが)、外にでてケイタイをみたら6時44分で、外は暗い。3時半から映画を観て、観終わったら外が暗いだなんて、なんていう映画だろう。
新聞の夕刊の映画批評でほめていたが、新聞の映画欄の批評はときどきはずれるのは体験済みで、気になりながらもそのままにしていた。が、糸井重里の『ほぼ日刊イトイ新聞』で、糸井重里が毎日書いているエッセイでこの映画に強烈な印象を与えられたことを波打つようにつづっていたので、行く気になった。ひじょうに期待した。
方法ははっきりしている。黒白のせまい画面空間を埋めつくすような人人人たち。男たち女たちは汚れている。泥をつけ、習慣のようにツバをはき、雨にぬれ、常に動く。その画面をよこぎるようにとおりすぎる者たちは、役者たちは瞬間カメラを直視する。
これを円舞のようにくり返す。様式のようにくりかえす。ずっーと決まり事のようにくりかえす。動き、つばを吐き、わめき、食べ、たたき、殴り、泥道を進む。そしてつばを吐く。
いったいこれは何だということになる。このこだわりは、この執着は、この粘着力は。これは何だ。
映画のはじめに「800年ほどおくれた世界」というナレーションがあったので、えーとこれは今から逆にたどっていくと中世の世界になるか、中世的汚さの世界だなというところまではイメージするが、なにが展開されているのかよくわからない。ただ猛烈に汚い。
この映画を作った人はいったい何をいいたいんだろう。何をしたいんだ。何を語りたいんだ。どうしたいんだと思いながら観ることになる。
しかしこの奇妙な、エネルギーに満ち満ちたくり返しがあるからこそ、この映画の主人公である神でもあり、帝国一の剣士でもあり、18代続いた栄誉ある貴族でもあるというルマータという男のほんの2、3回の数少ない独白が生きる。このつぶやきが鍵を解く。このつぶやきで、この寓意の映画で監督のアレクセイ・ゲルマンがなにを言いたいのかがわかる。
かなり決定的なことをしゃべらせてしまっているのだ。
インターネット上の公式サイトでひとつだけ調べたことがあって、ロシア人らしいアレクセイ・ゲルマンというひとはどこの時代のロシア人かということだけは調べた。アレクセイ・ゲルマンはソビエトの時代に生まれ、プーチンのロシアの時代に死んだ人だった。
ぼくの受けとった人間というものへの、人間の営みというものへの、人間の歴史というものへの諦念、深い深いためいきのようなものはまちがっていない。もうどうしょうもないぜという感じなのだ。
ずっーとせまい低い暗いきたない場所での映像だったが、最後の最後、ラストシーンでは広々とした場所での映像となる。主人公はクラリネットのような楽器を吹いている。ジャズのようにも聴こえる。
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