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2015年2月

2015年2月26日 (木)

花粉の季節

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 目がかゆくなり、くしゃみがでて、夜寝ていると、左の鼻の穴がつまってというか、せまくなって空気がぜんぜんとおってないのに気づいたりする。これが花粉が舞いだしてから五月の初夏までつづく。花粉症というやつだ。

 さいしょになったのが1980年代の後半くらい。仕事中に目に違和感があるので便所までいって鏡をみてみたら、目のまわりが赤くなっている。びっくりして病院に行った。花粉症といわれた。これがはじまりだ。

 いちばんひどいときは10月くらいから目がかゆくなっていたときもある。だからそれにくらべれば、ずいぶんよくなっているのだ。

 問題は睡眠だ。左の鼻の穴がつまりやすいうえに右の鼻の穴の通りもわるくなることもあって、そうなると鼻で息ができなくなって、口で呼吸することになる。こうなると目が覚めやすくなるようだ。だから寝る前にそうなっていたら、鼻をかんだり、鼻のツボを押したりしてもだめだったら、点鼻薬をつかうつもりだ。このために病院に行って点鼻薬はもらってきている。

 薬はなるべく使いたくないとおもうけれど、こういうときは使ってもいいだろう。

2015年2月23日 (月)

近所の風景

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 休みの日にのんびりゆっくり過ごしたいというのが長年のぼくの夢なのだ。なぜかそれができない。そうならない。なにも用事がなくてもそうならないのだ。わが気持ちは。

 ふしぎなことにそうならないのだが、それでも「のんびりゆっくり」に近づいてきたとおもう。やっとそれができることに近づいてきた。

 「のんびりゆっくり」のぼくの原風景は田舎の家の納屋のわらの上で、ぼくがそこに寝ていて、その納屋にひかりがはいりこんでいて、ぼくがボーっとそれをみているというものだ。あのときのぼくの体は満ちていたようにおもう。

2015年2月22日 (日)

近所の風景

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 E.H.カーの『危機の二十年 1919-1939』(井上茂訳)と中島岳志の『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』を読み終わった。

2015年2月20日 (金)

マクドナルドで

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 このごろはマクドナルドでときどきくつろぐ。

 以前より客は少なめになったようで、その分ゆっくりできる感じがある。

 ひとときホッとしたい個人があつまるという感じが出てきていい。

2015年2月15日 (日)

ショスタコーヴィチ ワルツ第2番

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 ショスタコーヴィチの書いた曲のなかで気に入ったもののひとつ。

 なんて甘美な曲だろうと思い、しかしなんて憂うつな曲だろうとも思ったのだ。

 ショスタコーヴィチの住んでいた世界は「1984」の世界だった。ソルジェニーツィンのような抗議の声をあげるもの凄いひともいたが、ショスタコーヴィチはフットワークを使いながら生きた。

 身をかわし、背を低め、ときには声をあげ、また背を低める。しかし限界までそうした。

 「1984」の世界ではショスタコーヴィチのように生きるのが精いっぱいだったろう。

 理知的な人である。理(ことわり)をたどっていける人だった。しかしそれだけで「1984」の世界を耐えぬいたとも思えない。なにか独特のタフさを、身を流れる地下水を持っていたように思う。

2015年2月11日 (水)

ソロモン・ヴォルコフ編「ショスタコーヴィチの証言」

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 ソビエトの作曲家として生きたショスタコーヴィチへの取材を基にして書かれたソロモン・ヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』(水野忠夫訳)を読んだ。

 この本を出すために、そのためだけにソロモン・ヴォルコフはアメリカに亡命までしている。共産党の支配するソビエト国内ではショスタコーヴィチが本音を語っているこの本を出すことはできないからだ。

 1979年に『ショスタコーヴィチの証言』はアメリカで出版される。そのことのために、ショスタコーヴィチの証言をこの世にあらわすために、じぶんの国を捨てたロシア音楽の研究家ソロモン・ヴォルコフの熱意におどろくし、打たれる。

 この本を出すことを認めることの条件としてショスタコーヴィチは自分が死んだあとに出版して欲しいと求めている。臆病さを感じるが、スターリンの時代を生きた人間としてはやむをえないのかもしれない。そういった切実さは当然ぼくにはわからない。1975年にショスタコーヴィチは死に、ソロモン・ヴォルコフはその翌年に出国する。そして1979年、『ショスタコーヴィチの証言』は出版される。約束は守られた。

 ショスタコーヴィチの語り口は屈折してまた屈折してまた曲がるとでもいいたい感じで、孤独な面従腹背の世界を生きた人らしいものだ。このどんよりとした感じは現代の日本にも通じる。いまの日本を窮屈な地獄のように語る人もいるが、ショスタコーヴィチの証言もここは地獄だったんだと感じさせる。じっさい地獄の世界だったんだろう。

 「スターリンは蜘蛛であり、その巣に近づいてきた者はすべて破滅する運命にあった。だが、自分から進んで蜘蛛の巣に接近し、かわいがられたいと望んだ人々のことは気の毒に思う必要さえない。そのような人々は無実な人間の血でわが身を汚し、秘術をつくしたあげくに、殺されたのだから。」

 ショスタコーヴィチの作曲したものをユーチューブですこし聴いてみたが(ほとんど初めて)、構成されている音楽で、物語的で、いくつにも分かれ、おそらく長編小説のようなものなのだろうと思った。水から浮かびあがった泡が、つるつるした泡が、きれいに何もまとっていないといったふうではない。

 ショスタコーヴィチによれば、ショスタコーヴィチは交響曲のなかにいろんな自らの思いをこめているのだ。スターリンへの批判も試みている。そして音楽とはそういうもろもろをひきずったものだと語っている。音楽はただ純粋に音楽だけであるのがいいとはおもってないのだ。音楽そのものは非政治だとも反政治だとも考えていない。そこは意外でもあったし面白くも感じた。

 「音楽における意味というと、実際、多くの人々にとって、奇異に響くかもしれない。とりわけ西欧の人々にとっては。だが、わが国では本当に、この作者はこの音楽作品で何を言いたかったのだろうか、何を明らかにしたかったのだろうか、と問いかける習慣となっている。」

 『ショスタコーヴィチの証言』を終わりちかくまで読みすすめていくと、曲がったり、くねったり、身を隠したり、避けたりしながらも、最後の一線はゆずろうとしないショスタコーヴィチに親近感をもつようになる。ダッキングしながらもまた背筋をのばすショスタコーヴィチに感心したりする。陰鬱なショスタコーヴィチがスターリンの社会を生きのびながらなおも自分というものを手放さなかった、奇跡的な人のようにおもえてくる。ぼくはソルジェニーツィンとはちがう抵抗があったのだと認めてもよいようにおもった。(スターリン賞を何度も受賞したり、レーニン賞も何回ももらい、社会主義労働英雄の称号をもち、死ぬまでありとあらゆる賞をもらいつづけたといえるショスタコーヴィチが抵抗していたとはソルジェニーツィンは思わなかっただろうが)ソロモン・ヴォルコフの編んだ『ショスタコーヴィチの証言』はそうおもうことのできる一冊だ。

 人間というものに深い愛をもっていたからショスタコーヴィチは収容所群島を生んだソビエト社会の監視、密告、裏切りの世界に耐えられたのか。そうではないようだ。ショスタコーヴィチはそういうタイプのひとではない。音楽だけが大切であとはどうでもよかったというのでもない。神への愛に我が身をささえていたということでもない。

 その深い陰鬱さに、そのほとんどタフといってもいい陰鬱さに、鍵があるような気がする。そこを探って深くもぐっていけばショスタコーヴィチのもっていた「ちから」にたどりつくような気がする。

2015年2月 8日 (日)

「ショスタコーヴィチの証言」を読んでいる

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 曇り。

 ソロモン・ヴォルコフの編んだ『ショスタコーヴィチの証言』(水野忠夫訳)を読んでいる。

 1975年に死んだソビエトの作曲家ショスタコーヴィチに強い親近感を感じる。

 かつてがソルジェニーツィンの時代なら、いまはショスタコーヴィチの時代だといえる。

2015年2月 6日 (金)

グレン・グールドのピアノを聴く

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 むしゃくしゃしていたのでグレン・グールドのピアノを聴く。

2015年2月 3日 (火)

今年初めて雪が降る

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 1月30日、今年東京に初めて雪が降った日。

 イブ・モンタン主演、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の『恐怖の報酬』を観に行った。

 雪が降っていれば客は少ないだろうとあてこんで観に行った。10人くらいの客だった。

 10時にはじまって12時半すぎに終わった。なかなかの映画だと思ったけれど、1953年の映画だからいまの生活のテンポとはちがいがおおきくて、ゆるく感じる。しかし前半が終わりニトログリセリンのトラックでの輸送がはじまってからは手に汗にぎりながら観た。

 ビデオで観たときの印象とはまったくちがう。

 イブ・モンタンの恋人の描かれ方はいまはもうできないほど野放図だ。

 イブ・モンタンがニトログリセリンの運送に成功し、4000ドル手にして、恋人の待つところへ帰って終わる、と思ったらそうではない。

 もうひとひねりするのだ。

 終わり方が、最後カタルシスを与えて終わるのではなく、もうひとつ物語を入れこむ。あれは余計だったなと帰り道おもうけれど、1950年代の、あのころの生活のテンポのゆるさが人間に余裕をあたえているのじゃないか、それで最後にひとひねりできるのかもしれないと思った。いまの観客ほど、あのころの観客は最後のカタルシスを熱望していなかったかもしれない。

 ゆるく感じるけれど、人間の身体の生理にとっては1950年代の生活のリズムのほうが合っているのかもしれない。

 いつ行っても映画館で見かける顔があって、金曜日なら金曜日というある決まった曜日にみかけるというのではない。曜日がちがっていてもいる。上映中1、2回くらいビニール袋か紙袋で大きな音をたてるひとで、それで覚えてしまった。

 ひょっとして、この人は毎日映画館に来ているのではないかと気づいた。かならずこの映画館でやっている洋画の名作シリーズの催しで見かけるから、いつも来ているから、このシリーズは一本の上映が2週間くらいつづくから、毎日おなじ映画を観に映画館に来ていることになる。70歳代の男。おかしな人がいるもんだ。

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