木村俊介「変人 埴谷雄高の肖像」
面白かった。埴谷雄高自身へのインタビューではなく、埴谷雄高とかかわりのあった人たちへのインタビューで、埴谷雄高のヒトと現実の生活が浮かびあがってくる。
吉祥寺にある埴谷雄高の家の向かいに住む人へのインタビューと住み込み家政婦をやっていた人へのインタビューが決定的に重要かつ貴重で、面白い。これがほかの文芸的な埴谷雄高の本とのはっきりしたちがいになっている。そしてこの、真向かいさんと女中さんの話で埴谷雄高の知られざる暮らしが浮かびあがってくるのだ。ここに注目したインタビュー者木村俊介は秀逸だと思う。
埴谷雄高の本をはじめて読んだのは、東京に住んでいた叔母の引っ越しを手伝ったとき、本棚に埴谷雄高の『○○と○○』という本があって、ぼくがなんらかの反応をしたのだろう。「読みたければ持っていっていい。返さなくてもいいよ」というような叔母の言葉で、ぼくは持って帰り、読んだのだろう。評論集だったとおもう。さっぱりわからなかったとおもう。面白くもなかったのだ。たぶん全部よむこともないまま、当時几帳面だったぼくは、本を返すために電車に乗って叔母の住むアパートまで本を持って行ったとおもう。
それがどうしてかなり熱心に埴谷雄高の書いたものを読むことになったのか、その具体的ないきさつははっきりとはもう覚えていない。吉本隆明のものはすごく熱心に読んでいたから、そのからみか。あるいはちがう経路からか。ある時期までは埴谷雄高の本は、書いたものは、手に入るかぎりのものは読んでいたとおもう。
知り合ってまもない友人がぼくの部屋に遊びに来たとき、ぼくの本棚をみて、前遊びに行った人の部屋もこれと同じ本が並んでいた。これはいったいどういうことなんだ。あなたがたはいったいなんだ。おれはコンプレックスのような疎外感を感じるというようなことを言った。ぼくの本棚には吉本隆明と埴谷雄高の本とそれに関連した本がほとんどだった。他の本はほぼなかった。新しい友人はそのことを言ったのだ。その友人は少し下の世代のひとだった。ぼくはその声に抗議のような響きがあることにおどろきながら聞いたことをおぼえている。
ここに彫られている埴谷雄高の彫像は十二面体で、埴谷雄高を中心にして円を描くような形で埴谷雄高が語られている。
前から、後ろから、横から、ななめからというふうに。インタビューした人がひとの話をきくことにとても向いているひとだと思う。しゃべっている人は身体をゆるめて話している。
いいこというな、というかなかなかすごいこという人なんだなと思ったのが宮田毬栄、山口泉、小島信夫で。宮田毬栄、山口泉というひとはぼくは知らなかった。宮田毬栄というひとは編集者からエッセイストになった人と、山口泉というひとは作家と紹介されている。
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