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ふとしたことで読むことになった村上春樹の『スプートニクの恋人』。村上春樹の小説ほど喫茶店で読むのに適した本はないと思う。喫茶店ということのなかにはマクドナルド、モスバーガー、ミスタードーナツといった店が含まれるのだけれど、そういった店でこの小説を読んできた。自意識の筋が伸びるという感じがする。自意識の端の筋が心地よく踏まれ伸ばされるという感じだ。面白いし、よく読まれるのがわかる。
家では読まないようにして、出かけたとき、喫茶店にはいったとき読むようにしている。
この夏はじめて寝不足となった日に『2つ目の窓』を観に行った。新宿はカンカン照り。河瀬直美監督。何故充分に眠ることができなかったのだろうと、かんがえても取り戻せないことをずっと考えていた。ミスタードーナッツの窓の席からみる夏の新宿の街。明るく強い街。
映像がゆったりとしていて急いでいない。そのくりかえされる映像が心地よかった。『2つ目の窓』というのはぼくにとってこの映像のこととなった。沖縄の離島に行ったときもこういうリズムだったよなと思いだした。
東京の街が映っているとき登場人物がこの巨大な街のことを「東京だけがもっているぬくもりがある」としゃべっていたけれど、本当だろうか。そう思っている人がいるってことだよな。おもいがけない言葉だった。
「2つ目の窓」というのは何を指しているのかはわかった。後半の物語性が作られようとしているところよりも、ぼくはこの映画のゆったりとしたテンポ、ただ流れていくことが無意識的に肯定されているような映像、くりかえし映されるその映像が心に残った。
ということだったのだけれど、この映画を観た夜、つぎの朝、目が覚めようとしているとき、まぶたの裏をある映像がながれた。島の巫女のような存在であるこの映画の死と再生の象徴のひとりである松田美由紀が祈るお札のようなものに書かれている文字のことだ。南島の巫女が拝むにしてはえらく制度的なものが書かれている。これは何だとまぶたの裏をながれる映像を観ながら思っていた。
松田美由紀は奄美大島の巫女的な存在ということになっているから、これはむかし琉球圏から日本に組み込まれるとき・・・、薩摩藩だ。島津とかいう藩主だ。江戸時代じゃなくてああいう文字が書かれている以上明治政府だ。明治政府からこういうことを書かなければ、こういう相手を祈らなければ、こういうお札でなければ巫女という存在が許されなかったんだろう。そういうことだ。
河瀬直美監督はそのままを撮ったんだろう。これを肯定的に撮られてしまうとこの映画はまたちがう意味をもってしまうだろう。そうではないはずだ。目が覚めるまでにほぼこういう結論をだしてぼくは目を覚ました。まぶたの裏の映像はおわった。起き上がり、ゆっくりと窓の向こうをみる。
きのうの夜はむし暑かった。それと窓を開けていてもまったく風がはいってこない。それであきらめてエアコンをつけて寝た。風がはいってこないときつい。
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