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東京という所と住む者との関係が稀薄なのは東京が<常に変わりつづける風景>をもつ都市だからだ。
なつかしいと思える場所に行ってみてもそこは<なつかしさのリアリティー>といったものが失われている。住む者との関係を都市のほうからリセットしつづけるのだ。まあ「風景の骨格」といったものは残るわけだけど。
唐組の『桃太郎の母』を観に行った。第53回めの公演になる。場所は新宿花園神社。
例によって開場までの時間の過ごし方に苦労した。前売り券はもう買ってあったから開場時間ぎりぎりに行くという手もあったが、それはあまりに「消費的」でためらわれた。
芝居を観に行くということは、この日なら休めるだろうという日を、仕事のスケジュールをみながら決め、チケットを買った後は、その日に急な仕事がはいって出勤にならないだろうかとやきもきしながら過ごし、当日はやっぱり前のほうの席がいいだろうとあらためて思い、早めに出かけて前売り券と席順の書いてある番号札とを交換し、それからの長い待ち時間の過ごし方にやっぱり苦労してしまうというのがなんというか、あるべき「芝居の日」の過ごし方だろうとやっぱり思ったわけです。
どきどきしないと。芝居を観る意味がない。
『桃太郎の母』 作・唐十郎 演出・唐十郎+久保井研
これは初演ではなく前に上演したことのある作品。観たことがあるのかないのか思い出せない。
12分間の休みをはさんで前半を第一部とすれば、第一部の軽快さ、テンポのよさ、スピーディさが強い印象だ。気持ちがいいぐらいだった。
このころは唐十郎の出番もいまとちがって多かったんだなというのが、『桃太郎の母』を観ながらの思い。だから唐十郎の演じたカンテン堂をやる久保井研を観ていると唐十郎という役者のもつ存在感の大きさを感じずにはいられない。唐十郎の不在がこれからも長くつづくのだとすれば、唐十郎のようにカンテン堂を演じるのではなく、久保井研のように久保井研はカンテン堂を演じざる得ないだろうと思う。台本を書いた唐十郎はじぶんの役のつもりでカンテン堂の台詞とふるまいを書いているだろうから、そういうことができるのかどうかわからないが。
第二部を観ているうちに頭が迷路にはいっていった。話の展開がほぼ分からない。わかったのは話を分からないようにも唐十郎は書いているんだろうということ。台湾で行方不明になった女子大生「真理子」をめぐる、「真理子が吐いた息」をめぐる物語。海のにおいのする物語。
辻孝彦、赤松由美、稲荷卓央といったなじみの役者のほかにあまり観たことのない福本雄樹という若い役者が重要な役どころででている。そのぶん舞台に新鮮な感じが生まれている。
劇の終わりにやってくるこことあっちに、芝居と現実に、そのあいだに通路をあけてしまおうという行いはいつもとちがった試みをしていて、ちょっとドキっとした。このお約束のように劇の終わりにやってくる芝居と現実の間に通路を開けてしまおうという行為は、劇を蹴破って「現実」にでていこうとする唐十郎の衝動だと思いたい。
芝居が終わったあと、ぼくら観客はテントから出て、テントを何度か振り返りつつも足を運び、それぞれ駅に向かって歩いていくことになるわけだが、当然いつもそうなるのだが、その夜は多くの観客がテントのまわりに立っていた、残っていた。特別良い出来だったとは思わない。しかしぼくもすぐ立ち去る気にならず、しばらく神社のなかの照明を浴びて明るいテントと人たちをみていた。ひとたちは何かを待っていたのだった。ぼくもそうだったのだろうと思う。
やっぱりちょっとワクワクする。
あちこち行ってみるつもりだ。
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