「言語にとって美とはなにか」
長いあいだ強い影響を受けた吉本隆明の本を、そのなかでいまも手元に置いてあるものを読み返す試みをしている。
読み返すことはなかったが、つねにその存在が意識されていたともいえる『言語にとって美とはなにか』を読み返しはじめてからしばらくして、おれはこの本を誤読しているのではないか、そんな思いが、考えがフッと、しかしまたフッと浮かんできて、息が詰まるような思いがした。『言語にとって美とはなにか』は最初にいつ読んだのか、はっきり思い出せないのだが、80年ごろに友人たち4、5人と『言語にとって美とはなにか』の読書会を開いたのを覚えている。そのときにはもうこの手元にある本は持っていたのだ。
考え方や生き方にも、とくに詩を書く上で決定的な影響を受けた本であって、ぼくは「自己表出の発見」として読んでいる。その影響のまま長い時間が経ち、まだ捨てずにいる本だ。
その本の基本的なところをおれは誤読しているのではないか・・・、ぞっとするような思いで少しづつ読みつづけて、やはりおれは『言語にとって美とはなにか』の基本的なところを誤読しているようだと、つまり「自己表出」も「指示表出」もおなじように、同じ重さをもつものとして書かれていると認めざるを得なかったとき、また吉本隆明が自己表出のほうにポイントを置いて書いていることもないと知ったとき、冷や汗が出てきた。目の前が暗くなった。
絶望的な気持ちになったが、とにかく最後まで読もうと休みの日や仕事の終わった後などに少しづつ読みつづけているうちに、なんとなくちがう心持ちになってきた。だんだんこの本そのものに引きづり込まれていったのだ。面白く読めるのだ。とても面白い。吉本隆明の代表作はこれかもしれないと考えたりした。そして自分の誤読も時代の誤読であって、みんなが誤読したようにおれも誤読したのだと思えるようになった。
というわけで「Ⅰ」につづいて「Ⅱ」もどうしても読みたくなって、Ⅰが読み終わらないうちにⅡを買いに行った。Ⅱは持っていなかった。一度読んだのだろうか、読んでないのだろうか。Ⅰまででいいと思ったのかもしれない。
大きな単行本の『言語にとって美とはなにかⅡ』はみつからなかったが、古本屋からブックオフ、新刊を置いてある本屋を二軒回ったところで文庫本の『言語にとって美とはなにかⅡ』がみつかった。ぼくはそれを買った。
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